天皇 [本/雑誌]
1投稿者:777  投稿日:2019年11月24日(日) 20時36分07秒
日米戦争を策謀したのは近衛文麿ではなく昭和天皇でしょう。しかし、真実を語るのは学会ではタブーになっているのです。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。

また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。
2投稿者:2  投稿日:2019年11月24日(日) 20時36分16秒

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。
それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。
国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。
3投稿者:2  投稿日:2019年11月24日(日) 20時41分22秒
太平洋戦争は日米の戦争ではなく昭和天皇とアメリカ支配階級が組んで、共産革命を目指す日本人を懲らしめた戦争だった


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。
 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
4投稿者:2  投稿日:2019年11月25日(月) 16時49分59秒
因みに、天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼が典型的な漢民族だよ
アイヌ人・琉球人や縄文人、長江人で一重瞼なんか一人もいないからね。漢民族は元々略奪が生業としていた黄河文明人でコーカソイドなんだ。
それで天皇一族も殺人鬼の性格を受け継いでいる。南京大虐殺も慰安婦強制連行もすべて昭和天皇直々の命令だったので誰も断れなかったんだ:

RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。
BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
5投稿者:2  投稿日:2019年11月25日(月) 17時06分45秒





学会でタブーになっている、漢民族の可能性が高い天皇一族のルーツ探し

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。
日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である ために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。この話はあるメディアに流れました。
6投稿者:2  投稿日:2019年11月26日(火) 11時38分52秒
天皇一族は自他共に認める朝鮮からの渡来人だった:

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。

___


天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。
それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。
日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、 それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、
同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
7投稿者:2  投稿日:2019年11月26日(火) 12時06分00秒






77 730 分前(編集済み)

ニニギノミコトが天下ったのは九州ではなく韓国ソウルにある高千穂だった:

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授 (2002年1月26日 講演記録より)

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。 高千穂伝承には

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」「日向の槵日の高千穂の峰」「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。

韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。
『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。

高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
8投稿者:2  投稿日:2019年11月26日(火) 12時19分22秒
三橋貴明さんは弥生人(長江の稲作民)と朝鮮からの渡来人(漢民族)を混同して同じ民族だと思い込んでいるんですね。

天皇一族は自他共に認める朝鮮からの渡来人で、先住の縄文人・弥生人を征服・虐殺して大和朝廷を打ち建てた。 先住民は今も被差別同和部落民として細々と生きている:

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。

9投稿者:2  投稿日:2019年11月26日(火) 12時19分31秒
___


天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。
それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。
日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、 それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、
同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
10投稿者:2  投稿日:2019年11月26日(火) 12時25分00秒
三橋貴明さんは弥生人(縄文人+長江の稲作農耕民)と朝鮮からの渡来人(漢民族)を混同して同じ民族だと思い込んでいるんですね。

天皇一族は自他共に認める朝鮮からの渡来人で、先住の弥生人(縄文人+長江の稲作農耕民)を征服・虐殺して大和朝廷を打ち建てた。 先住民は今も被差別xx民として細々と生きている:

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。

11投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 08時46分54秒
近衛文麿も東条英機も昭和天皇の命令には絶対に逆らえなかった:

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。
中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。
「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」
 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。
ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。
裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。
 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。
そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。
木戸はまた、 刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。
彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
12投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 08時52分04秒
近衛文麿も東条英機も昭和天皇の命令には絶対に逆らえなかった:

昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機
御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作りそこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ
それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけですだから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです
東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです他の連中もそういうシステムで戦争が進んでいく訳です



1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。

ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。
そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、 刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
13投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 11時01分56秒
天皇一族は昔から琉球人の仇敵

アメリカからの指示で原爆投下までの時間を稼ぐ為に沖縄戦をやらせたのも昭和天皇、沖縄の日本返還を止めたのも昭和天皇、アメリカと通じていた天皇一族を絶対に許してはいけない:


沖縄に関する昭和天皇メッセージ
(日本独立後も沖縄を米国に50年等の長期租借を提案) 
 戦後憲法は天皇を象徴とした。 しかし、昭和天皇は、戦後の米国との関係に最も関わってきた人物である。 それは多くの国民の期待に反してである。 総司令部政治顧問シーボルトは「疑いもなく私利に大きくもとづいている」
と評価した。 天皇の政治参加という戦後史のタブーの分野に最初に手を付けたのが、進藤榮一氏である。
進藤榮一筑波大教授が、米国から帰国後、沖縄分割に関する天皇メッセージ電文を発掘掲載した衝撃的論文「分割された領土」(岩波書店の月刊誌『世界』1979年4月号)で発表した。同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた昭和天皇の見解をまとめたメモ。 寺崎英成は1947年2月、宮内省御用掛に任命され、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の通訳を数回務めが、50歳の若さで死去。柳田邦男原作『マリコ』の主人公のモデル。
総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡 主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解 国務長官殿 在ワシントン
拝啓天皇の顧問、寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。
 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。                              
敬具                

合衆国対日政治顧問 代表部顧問 W.J.シーボルト                  東京 1947年9月22日


「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から1947年9月22日付通信第1293号への同封文書 連合国最高司令官総司令部外交部 1947年9月20日

 マッカーサー元帥のための覚え書天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。
 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。
天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼及び左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。
 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借
――25年ないし50年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、また、これによる他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。  手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。 寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。 W.J.シーボルト
14投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 16時05分21秒
日本政府の「フェイクニュース」を許さない!

昭和天皇はアメリカと密約していた

‘昭和天皇は原爆が落とされるのを事前に知っていた’
つまり昭和天皇はその事実を知っていて日本国民には知らせなかった、すなわち広島、長崎の人たちを見殺しにした、ということです。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」



これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

15投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 17時13分17秒
天皇は戦争犯罪者だから、外交上そうはいかないんだよ:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
16投稿者:2  投稿日:2019年11月27日(水) 17時33分58秒
天皇は戦争犯罪者だから、外交上そうはいかないんだよ。遺伝学で天皇は朝鮮人で、日本人ではないと証明されているしね。
17投稿者:2  投稿日:2019年11月28日(木) 20時20分10秒
天皇・皇族にも人権を与えるべき? ならばまずその特権を放棄してもらおう

天皇や皇族には、日本国憲法が保障する各種の人権は認められていない。
彼ら/彼女らには職業選択の自由も好きなところに住む自由もなく、選挙権・被選挙権もない。政治的発言が許されない立場であるため、表現の自由や学問の自由も制約される。
好きな相手と「両性の合意のみに基いて」結婚することもできなければ、逆に結婚せずに独身を貫くことも、離婚することも困難だろう。また、天皇が神道祭祀の主宰者である以上、信教の自由を行使してキリスト教やイスラム教に入信したりするわけにもいかないだろう。
まことに不自由だらけの「お立場」なわけだが、ではどうすればいいのか?

こういうのはまあ論外として、現在の象徴天皇制を維持することを前提に、天皇・皇族にもある程度の人権を認めるべきだという議論はある。憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授(故人)が提唱した「脱出の権利」などが代表的なものだ。

「脱出の権利」とは、嫌なら天皇・皇族を辞めて「ただの人」になる権利のことだ。(注:現在でも15歳以上の内親王・王・女王は皇族を辞めることができるが、皇室会議による承認が必要。)
しかし、そんな権利を認めたら、がんじがらめの不自由な身分を嫌って皇族が続々と辞めてしまい、天皇制が崩壊してしまうのではないか?
確かに、論理的にはそうなる可能性も考えられるが、それは天皇・皇族という地位が本当に無権利状態の惨めなものであればの話だ。
実際にはどうなのか?
まず、基本的人権の中でも最も根本的で、これがなければ他の人権もすべて無意味になってしまうのが「生存権」だが、天皇・皇族はこれを制限されるどころか、この国に生きるすべての人間の中でも最も手厚く保障されている。
経済的には、天皇とその家族の生活費に相当する「内廷費」が、年に3億2,400万円(2016年度、以下同様)与えられている。これは、天皇家が行う各種儀式や地方への行幸、外遊等に使われる「宮廷費」(55億4,558万円)とは別枠である。この他、各宮家の皇族に与えられる「皇族費」が、合計で年額2億2,997万円支払われている。[1]
金額だけから言えば天皇・皇族以上の収入を得ている富裕層はいくらもいるだろうが、そうした一般人との違いは、その金が国家によって保障され、税金から支出されているという点だ。つまり、ただその身分にいるだけで得られ、決して失う心配のないリスクゼロの収入である。結局のところ生活保護しかそのような保障のない(しかも現実には権利行使が容易でない)一般人とはえらい違いだ。
こんなことを言う人もよくいるが、

それにしては、天皇や皇族が過労死したとかいう話を一向に聞かないのはどうしたことだろうか?
ちなみに、憲法上天皇が職務として行わなければならないのは、第6条・第7条に規定されている国事行為だけだ。「公務」と称して行われているそれ以外のすべての行為は仕事ではない。また、天皇以外の皇族には何の仕事も課せられていない。

第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
国会を召集すること。
衆議院を解散すること。
国会議員の総選挙の施行を公示すること。
国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
栄典を授与すること。
批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
外国の大使及び公使を接受すること。
儀式を行ふこと。


医療の面でも、天皇・皇族は、自分で保険料を支払わなければならない国民健康保険しか国家による支援のない一般人とは比較にならない手厚さで支えられている。
その上、彼ら/彼女らには、ただ皇族として生まれただけで、赤ん坊のときから「◯◯さま」などと呼ばれて特別扱いされるという特典までついてくる。こんな「安全安心+特典」と比べたら、憲法が保障する「人権」が形式的にはないことなど、些細なことだろう。その権利を持っているはずの者たちでさえおよそ半数が行使しない参政権がないのが何だというのか。
そして今日も、新天皇徳仁の即位祝賀パレードとかいうものが、膨大な費用を費やし、一般人の人権を大幅に侵害しながら行われる。



要するに、天皇・皇族とは、いわゆる「人権」がない代わりに、あり余る特権を与えられた存在なのだ。
人権とは、すべての人は生まれながらに平等であるという理念に基づいて保障される権利のことだ。その理念とは真逆の身分制に基づく特権と人権を両立させることはできない。
天皇・皇族にも一般人同様の人権を与えたければ、天皇制を廃止して、すべての特権を放棄させればよい。それ以外の「うまいやり方」などない。
18投稿者:9  投稿日:2019年11月28日(木) 20時30分27秒
「雨が上がって日が差したら虹が出た」だけのことを奇跡でも起きたかのように騒ぐバカの国

22日は、新天皇徳仁が即位を宣言する儀式だという「即位礼正殿の儀」が皇居で行われ、NHKも民放も、地上波全局がその中継だの解説だので埋め尽くされた。皇族女性の服の色がどうとか、くだらない話ばかり聞かされてうんざりである。
この日は朝からかなりの大雨だったのだが、儀式の始まる前には雨が上がり、日が差して虹が出た。
大気中に雨滴が残る雨上がりに日が差せば虹が出るのは当たり前の自然現象なのだが、ウヨ方面では天皇の霊力で奇跡でも起きたかのような大騒ぎである。


 (略)Twitter上では「儀式が始まった途端に雨が止んで虹がかかった」なる声が湧き、神話の「天照大神」や「天叢雲剣」、さらには「エンペラーウェザー」なる造語がトレンド入りした。東京では午前中から降っていた雨が小康状態になり、晴れ間も見えたことから、ようするに “天皇の神の力が天候を変えた”と言いたいらしい。たとえばこんなツイートだ。
〈・天叢雲剣で雲がかかって大雨、普段祀られてる神社近辺は晴れ
・儀式直前に天照大神が降臨したかのように晴れる
・虹が低くかかり結界のようになる
・イザナギとイザナミが下界に来る時の架け橋で虹を使用したという神話
神様は本当にいるのか…〉
〈天皇のパワーがすごい、即位礼正殿の儀の時に空が晴れて虹が出る〉
〈天叢雲剣 で雲がかかり大雨になり、儀式直前には #天照大神 が降臨したかのように晴れる。
そして、虹が低くかかり結界のように。
イザナギとイザナミが下界におりる時、虹を使用したという神話。
日本は間違いなく神の国。〉
〈これが神の力かぁ!! 万歳!万歳!万歳!〉
(略)
 しかも、こうした言葉を口にしたのは、一般ユーザーだけではない。作家の百田尚樹氏も〈これほど美しい虹が偶然に起こるはずもない。天が新天皇の即位を寿ぎ、日本を祝福しているのだ〉と投稿した。
 百田氏のツイートには〈御意。天照大御神もお喜びなのでしょう〉〈しかも、こんな完璧な虹なんか、そうそう現れないって! 天皇陛下の霊験、ハンパない!〉〈天照大明神が日本を照らして下さる〉〈改めてこの国に生まれて良かった。そして命をかけてこの国を護り続けてきてくださった全ての先人、英霊に感謝〉なるファンからのコメントが相次いだ。
 他にも、複数のネトウヨ系サイトが、東京で雨が止んだことや一部で虹がかかったことを何かしら“天皇の力”に結びつけるようにして、嬉々としてまとめている。こいつらは正気なのか。

リテラが取りあげたツイート例も大概だが、個人的にツボにはまったアホツイートはこれ。

この儀式の後、その台風20号と21号によって関東全域が豪雨災害に見舞われ、千葉では9名も死者が出ているのだが、するとこれは新天皇の不徳のせい、ということでいいんだよね?
ちなみに、この人以外にも「皇居の上に虹がー!」とか言ってるツイートが多数見られたが、それはあんたらがたまたまその時皇居の南側にいたからで、虹は太陽の反対方向に見えるという原理から来る当たり前の結果に過ぎない。
旧約聖書を持ち出して「虹は神との契約」とか言っているサイトまであったのだが、どうしてそこで聖書なのか? 日本人なら我が国の古典から意味を考えるべきではないのか?

で、「虹」という字が虫偏であることからも分かるように、古来日本では、虹は蛇と結びつけられてイメージされ(一部の方言ではどちらも「ナギ」と呼ぶ)、基本的に不吉なものだった。たとえば、日本書紀(雄略紀)には次のような説話が載っている[1]。

 三年の夏四月に、阿閉臣あへのおみ国見、(略)𣑥幡たくはたの皇女ひめみこと湯人ゆゑの廬城部連いほきべのむらじ武彦とを譖しこぢて曰はく、「武彦、皇女を姧けがしまつりて任身はらましめたり」といふ。(略)武彦の父枳莒喩きこゆ、此の流言つてことを聞きて、禍の身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河に誘あとへ率たしみて、偽あざむきて使鸕(茲+鳥)没水捕魚うかはするまねして、因よりて其不意ゆくりもなくして打ち殺しつ。天皇、聞しめして使者を遣して、皇女を案かむがへ問はしめたまふ。皇女、対こたへて言まうさく、「妾やつこは、識しらず」とまうす。俄にして皇女、神鏡を齎とり持ちて、五十鈴河の上ほとりに詣いでまして、人の行ありかぬところを伺うかがひて、鏡を埋うづみて経わなき死ぬ。天皇、皇女の不在なきことを疑ひたまひて、恒つねに闇夜に東西に求覚もとめしめたまふ。乃すなはち河上かはのほとりに虹ぬじの見ゆること蛇をろちの如くして、四五丈ばかりなり。虹の起たてる処を掘りて、神鏡を獲う。移行未遠たちどころにして、皇女の屍かばねを得たり。割さきて観みれば、腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩きこゆ、斯これに由りて、子の罪を雪きよむること得たり。還かへりて子を殺せることを悔いて、報たむかひに国見を殺さむとす。石上神宮に逃げ匿かくれぬ。

まあ、ネトウヨが無知とご都合主義でバカなことばかり言うのは通常運転だが、NHKまでがこのざまだから笑ってもいられない。

で、こんなふうに「普通の日本人」やマスコミが浮かれたバカ騒ぎをしている一方で、当日行われた即位反対デモでは、ただ歩いていただけの参加者が三名も不当逮捕された。


この国は既に、戦前戦中の狂信的カルト国家まであと一歩のところに来ているのだろう。
19投稿者:2  投稿日:2019年11月29日(金) 18時10分44秒
チャンネル桜は無知蒙昧な人間ばかりで何も知らないみたいだから教えてやるよ
日本は既に3世紀から極悪非道な漢民族に征服・支配されているよ:

日本への黄河文明系武装侵攻集団の到来

狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。

朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる

この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

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日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、 縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)

地主や自作農は 長江の稲作民系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)

貧農や小作人や非差別xx民は 縄文系「D1」
20投稿者:2  投稿日:2019年11月29日(金) 23時59分10秒
日米開戦の真犯人は昭和天皇だというのが定説でしょう。
当時、真珠湾について良く知っていたのが日本で昭和天皇一人だけだったのは有名な話です。

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

21投稿者:2  投稿日:2019年11月29日(金) 23時59分35秒

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。
「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」
これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」
柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑問を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で(私の注:アメリカの)陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。徳本栄一郎「英国機密ファイルの昭和天皇」(2007年)には次なる記述がある。「1985年、彼(白洲次郎)は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨のあるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した‘密使’であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の‘エージェント’としての顔だ。」徳本栄一郎の「英国機密ファイルの昭和天皇」には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。
22投稿者:2  投稿日:2019年11月29日(金) 23時59分43秒
クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも1982年、創業者のシグモント・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのがロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。
引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パーピスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグモント・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSS(私の注:CIAの前身)の中に入り日本向けの情報担当官となる。白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループ(私の注:戦前の吉田茂反戦グループの略称。実際は裏で戦争を推進していた)に流していく。白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け・・・」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムント・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざる状況が生じたのである。
白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。
私は前著「日本のいちばん醜い日」でヨハンセン・グループについて詳述した。その中で、外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されている「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を原爆13終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は(私の注:アメリカの軍事会議の)「目標管理委員会初回会議覚書」(1945年4月27日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。
23投稿者:2  投稿日:2019年11月30日(土) 00時00分17秒
昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけた:

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやったまともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった
あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。
だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。
あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。
マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。
ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
24投稿者:2  投稿日:2019年11月30日(土) 18時04分15秒
皇室関係は誰が誰の父親かわからない様で、ヨーロッパの王室の様にDNA鑑定を公開しないと大変の事になりますね
25投稿者:2  投稿日:2019年12月03日(火) 12時44分10秒
馬渕睦夫さんは神道の事も天皇家の事も全く理解していないそもそも天皇一族は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だったし、戦後の皇族は全員クリスチャンで神道を宗教だとは思っていない
特に明治天皇はイギリスの指示で日本の神道を滅ぼして日本人を完全な無宗教民族にした反日売国奴だった


廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

26投稿者:2  投稿日:2019年12月03日(火) 12時44分21秒
 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。
 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。
   
天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがある。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。
27投稿者:2  投稿日:2019年12月03日(火) 13時21分02秒
神道と日本古来の文化を憎む天皇一族

昭和天皇は神道も日本古来の文化も憎んでいた:

21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。
しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。
政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
____

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。
白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。
皇太后と天皇が原爆投下について知っていた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

_

カトリック教徒になろうとした昭和天皇

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
___

皇室とキリスト教の関係は明治時代からかなり広く、深いです。昭和天皇が少年であられた時、家庭教師は、クューカー教徒のヴァイニング夫人であったし、美智子様は聖心女学院出身であり、クリスチャンです。そして、私の身近な人でも皇室に接触があるであろう宣教師がいます。
28投稿者:2  投稿日:2019年12月03日(火) 13時25分50秒
カトリック教徒になろうとした昭和天皇

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。
しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。
政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
_

皇室とキリスト教の関係は明治時代からかなり広く、深いです。昭和天皇が少年であられた時、家庭教師は、クューカー教徒のヴァイニング夫人であったし、美智子様は聖心女学院出身であり、クリスチャンです。そして、私の身近な人でも皇室に接触があるであろう宣教師がいます。

雅子皇后は、妹たちがカトリックの洗礼を受けている、また、三笠宮妃信子様は、カトリックの名家・麻生家の出で、麻生太郎元総理の妹である。

 皇嗣秋篠宮の長女・眞子様は、国際基督教大学(ICU)に進学された。次女・佳子様は学習院大学を辞めてICUに進学された。ただし、同学でキリスト教に改宗する学生はごく僅かとされる。皇室関係の職員には、キリスト教徒が多いことが注目される。昭和天皇の初代の侍従長・珍田伯爵は、元外務次官でメソディスト派の牧師だった。その後の歴代侍従長もキリスト教徒が多いと言われる。たとえば、渡邊元侍従長は聖公会だった。川島元侍従長はカトリックで、同じくカトリックで日本初の国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子といとこ同士だった。

 今上天皇と皇嗣秋篠宮の養育係だった浜尾侍従はカトリック教徒であり、彼の弟・浜尾伺郎は枢機卿という高位聖職者だった。女官長にもキリスト教徒が多いとされる。歴代の宮内庁長官では、田島、宇佐美等がカトリック教徒だった。また宮内庁の職員にはカトリックが多いと伝えられる。
29投稿者:2  投稿日:2019年12月03日(火) 13時32分21秒
昭和天皇は神道も日本古来の文化も憎んでいた:
ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。
政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
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白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。
白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。
皇太后と天皇が原爆投下について知っていた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

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カトリック教徒になろうとした昭和天皇

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
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皇室とキリスト教の関係は明治時代からかなり広く、深いです。昭和天皇が少年であられた時、家庭教師は、クューカー教徒のヴァイニング夫人であったし、美智子様は聖心女学院出身であり、クリスチャンです。

皇室とキリスト教の関係は明治時代からかなり広く、深いです。昭和天皇が少年であられた時、家庭教師は、クューカー教徒のヴァイニング夫人であったし、美智子様は聖心女学院出身であり、クリスチャンです。そして、私の身近な人でも皇室に接触があるであろう宣教師がいます。

雅子皇后は、妹たちがカトリックの洗礼を受けている、また、三笠宮妃信子様は、カトリックの名家・麻生家の出で、麻生太郎元総理の妹である。

 皇嗣秋篠宮の長女・眞子様は、国際基督教大学(ICU)に進学された。次女・佳子様は学習院大学を辞めてICUに進学された。皇室関係の職員には、キリスト教徒が多いことが注目される。昭和天皇の初代の侍従長・珍田伯爵は、元外務次官でメソディスト派の牧師だった。その後の歴代侍従長もキリスト教徒が多いと言われる。たとえば、渡邊元侍従長は聖公会だった。川島元侍従長はカトリックで、同じくカトリックで日本初の国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子といとこ同士だった。

 今上天皇と皇嗣秋篠宮の養育係だった浜尾侍従はカトリック教徒であり、彼の弟・浜尾伺郎は枢機卿という高位聖職者だった。女官長にもキリスト教徒が多いとされる。歴代の宮内庁長官では、田島、宇佐美等がカトリック教徒だった。また宮内庁の職員にはカトリックが多いと伝えられる。
30投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 08時47分23秒
広田弘毅 :「天皇陛下漫才!!!!!! 天皇陛下漫才!!!!!!」
今やっと「漫才」というの意味がわかる様になりましたね:


三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。

『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、「非常に有難うございました」とお礼をいわれた。それから松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。


仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。

顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、

「今、マンザイをやってたんでしょう」

といわれた。

「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」

私も真面目に、こうこたえた。

「いや、そんなことはないが・・・・・・」

お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」

といわれた。私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」

といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」というと、広田さんが板垣さんに、「あなた、おやりなさい」とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。

花山信勝 「巣鴨の生と死」  
31投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 08時50分31秒
戦後、皇族が自分達の意思で芸能人化したのが原因なのです。

戦前は皇族は一般人の前には絶対に姿を見せなかったのですが、こういう事情で芸能人として生きていく方針に変えたのです:

天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。
その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。
裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。
戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。
そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。
その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。
 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。

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広田弘毅 :「天皇陛下漫才!!!!!! 天皇陛下漫才!!!!!!」

今やっと「漫才」というの意味がわかる様になりましたね:
三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。

『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、「非常に有難うございました」とお礼をいわれた。それから松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。
仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、
「今、マンザイをやってたんでしょう」
といわれた。「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」
私も真面目に、こうこたえた。「いや、そんなことはないが・・・・・・」お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」

といわれた。私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」

といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、「それでは、ここでどうぞ」というと、広田さんが板垣さんに、「あなた、おやりなさい」とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下漫才」を三唱された。

花山信勝 「巣鴨の生と死」
32投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 09時01分37秒
戦後、皇族が自分達の意思で芸能人化したのが原因なのです。
戦前は皇族は一般人の前には絶対に姿を見せなかったのですが、こういう事情で芸能人として生きていく方針に変えたのです:

終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、
わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。
昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。
戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。
 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。

___


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
33投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 16時47分29秒
林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は

昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

__

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
34投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 16時48分29秒
丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。
あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。
米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。

1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。
 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
35投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 17時20分21秒
昭和天皇が日中戦争を起こした本来の目的【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク
北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。
阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。
1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。
日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。

やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。
阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。
これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。
36投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 20時47分07秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+スターリン) の戦いだった

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

__

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
37投稿者:35の訂正  投稿日:2019年12月07日(土) 20時53分31秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+スターリン+毛沢東) の戦いだったが、敗戦を悟った昭和天皇はアメリカと内通した

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

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大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
38投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 22時20分57秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+ニューディール派+スターリン+毛沢東) の戦いだったが、敗戦を悟った昭和天皇は真珠湾攻撃の前にアメリカと内通した

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
39投稿者:2  投稿日:2019年12月07日(土) 22時21分33秒
昭和天皇がウォール街のエージェントでかつ反ルーズベルト・反共になった経緯
馬渕睦夫さんのディープ・ステートとかいうアホ陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は

・ヒトラー、昭和天皇はウォール街のエージェントで反共

・ルーズベルト大統領、ニューディール派と戦後の日本を無階級社会に変えたGHQ幹部は社会主義者でスターリンの盟友

・ウォール街とアメリカのユダヤ人は全員反スターリン・反共

というのが正しいのですね:
日本がウォール街の属国になる切っ掛けになった関東大震災から96年

 今から96年前、1923年の9月1日午前11時58分に東京周辺は巨大地震に襲われた。被災者は340万人以上に及び、死者と行方不明者を合わせると10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達していたと言われている。

 地震は日本の経済も揺るがした。そこで山本内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だ。

 銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になる。しかも銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 そこで復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助である。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。

 必然的にJPモルガンは日本に対して大きな影響力を持つようになり、緊縮財政と金本位制への復帰を求めてくる。1929年7月に誕生した浜口雄幸内閣がこの要求を実現、日本の経済状況を悪化させ、庶民は塗炭の苦しみをなめさせられることになった。その時の大蔵大臣は井上だ。
 JPモルガンは1932年から33年にかけての頃、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルト大統領を倒してファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。
 この計画はアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将が阻止、議会でクーデターについて詳しく証言している。そのバトラー少将によると、ウォール街は金本位制に執着していた。

 日本では金本位制へ復帰した結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

 ルーズベルトを大統領にした選挙は1932年に実施されたが、その年にハーバート・フーバー大統領は駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ派遣する。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。

 グルーは日本の支配層に太いパイプがあり、秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていた。その中で最も親しくしていた人物は松岡洋右。1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、翌年の8月にグルーは日本を離れるが、最後にゴルフをした相手は岸だった。ちなみに、松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1932年に日本は「満州国」をでっち上げているが、そこで権勢を振るった「二キ三スケ」の中に松岡(スケ)と岸(スケ)は含まれている。そのほかのメンバーは東条英機(キ)、星野直樹(キ)、そして鮎川義介(スケ)だ。 本ブログでは繰り返し書いてきたが、戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。戦前レジームと戦後レジームはつながっている。

40投稿者:2  投稿日:2019年12月09日(月) 13時36分44秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+ニューディール派+スターリン+毛沢東) の戦いだったが、敗戦を悟った昭和天皇は真珠湾攻撃の前にアメリカと内通した

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険な人間をすべて検挙・拷問していった:

【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

41投稿者:2  投稿日:2019年12月09日(月) 13時37分10秒
日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

__

42投稿者:2  投稿日:2019年12月09日(月) 13時37分21秒
大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。

丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。
あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。
米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。

1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。
 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
43投稿者:2  投稿日:2019年12月09日(月) 20時09分32秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+ニューディール派+スターリン+毛沢東) の戦いだったが、敗戦を悟った昭和天皇は真珠湾攻撃の前にアメリカと内通した

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険な人間をすべて検挙・拷問していった:

【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

__

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
44投稿者:2  投稿日:2019年12月09日(月) 20時16分28秒
第二次世界大戦は 帝国主義(ヒトラ−+昭和天皇) vs. 共産主義(ルーズベルト+ニューディール派+スターリン+毛沢東) の戦いだったが、敗戦を悟った昭和天皇は真珠湾攻撃の前にアメリカと内通した

林千勝さんの太平洋戦争の近衛文麿陰謀論にチャンネル桜の人はみんな騙されてしまった様ですが、真実は

・ヒトラー、昭和天皇はウォール街のエージェントで反共

・ルーズベルト大統領、ニューディール派と戦後の日本を無階級社会に変えたGHQ幹部は社会主義者でスターリンの盟友、反ウォール街、反資本主義

・ウォール街とアメリカのユダヤ人は反スターリン・反共、反ルーズベルト・反ニューディール派

日中戦争で勝てそうもなくなり、外貨不足と石油不足で戦争継続が不可能になった昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:

昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険な人間をすべて検挙・拷問していった:

治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title

林千勝さんは完全に誤解していますが、アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、朝鮮・満州・台湾と日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

__

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をしたそして日本はアメリカの属国になった

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
45投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 00時05分22秒
皇居が何故爆撃されなかったか
東京大空襲や広島・長崎原爆投下の日時を何故昭和天皇が知っていたか

を考えた方がいいよ:

‘昭和天皇は原爆が落とされるのを事前に知っていた’
つまり昭和天皇はその事実を知っていて日本国民には知らせなかった、すなわち広島、長崎の人たちを見殺しにした、ということです。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」



これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。
46投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 08時17分01秒
林千勝さんも含め戦争関係の話では、全員が昭和天皇の戦時中の言動を必死で隠しているのは何故か?
天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm


デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

47投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 08時17分26秒
二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

48投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 08時17分35秒
明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
49投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 08時27分34秒
林千勝さんも含め戦争関係の話では、全員が昭和天皇の戦時中の言動を必死で隠しているのは何故か?
東京裁判で天皇の戦争責任を暴いた東条英機の証言について何故誰も触れないのか?

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。これは当時としては真実である。
しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。
キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
________

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」
 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。

ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。 裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。木戸はまた、

刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。 彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm
50投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 10時49分45秒

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes
51投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 15時11分25秒






77 71 秒前

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
52投稿者:2  投稿日:2019年12月10日(火) 15時26分55秒
日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
53投稿者:2  投稿日:2019年12月13日(金) 10時14分48秒
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

伏見宮で男系維持は不可能 _ 邦家 貞敬親王の時点でY染色体に大規模な変化が起こった
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

54投稿者:2  投稿日:2019年12月13日(金) 15時49分24秒






77 75 時間前(編集済み)

「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

伏見宮で男系維持は不可能 _ 邦家 貞敬親王の時点でY染色体に大規模な変化が起こった
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


『源氏物語』に描かれている様に、天皇家では系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている天皇がいる可能性が非常に大きい

皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ系図の間違いを取り入れたのは、そういう過去の事例を良く知っていたからでしょう。

継体天皇を天皇家の始祖とした場合、今上天皇は53回の父子継承となりますが、継体天皇とずっと父系でつながっている確率は60%乃至80%程度だと言われています。
55投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 08時47分12秒
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

伏見宮で男系維持は不可能 _ 邦家 貞敬親王の時点でY染色体に大規模な変化が起こった
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


『源氏物語』に描かれている様に、天皇家では系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている天皇がいる可能性が非常に大きい

皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ系図の間違いを取り入れたのは、そういう過去の事例を良く知っていたからでしょう。

継体天皇を天皇家の始祖とした場合、今上天皇は53回の父子継承となりますが、継体天皇とずっと父系でつながっている確率は60%乃至80%程度だと言われています。
(ヨーロッパ王室の系図でY染色体に大規模な変化が起こった比率を元に算出)


因みに、民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である ために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。この話はあるメディアに流れました。
56投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時10分18秒






77 721 分前(編集済み)

天皇家のルーツや遺伝子を研究すると迫害されて大学から追放される理由

伏見宮で男系維持は不可能 _ 邦家 貞敬親王の時点でY染色体に大規模な変化が起こった
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


『源氏物語』に描かれている様に、天皇家では系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている天皇がいる可能性が非常に大きい

皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ系図の間違いを取り入れたのは、そういう過去の事例を良く知っていたからでしょう。

継体天皇を天皇家の始祖とした場合、今上天皇は53回の父子継承となりますが、継体天皇とずっと父系でつながっている確率は60%乃至80%程度だと言われています。
(ヨーロッパ王室の系図でY染色体に大規模な変化が起こった比率を元に算出)


因みに、民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である ために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。この話はあるメディアに流れました。
57投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時22分42秒
縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

__________

現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からはまだ見つかっていない:ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系
58投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時30分30秒
縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

__________

現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からはまだ見つかっていない
(ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間)
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系
59投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時36分18秒
縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

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現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からはまだ見つかっていない
(ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間)
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現在の韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%

現在の中国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
60投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時58分32秒
縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

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現在の日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からは見つかっていない
(ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間)
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現在の琉球人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2*--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a)

現在の韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル人 C3: 11.3%

現在の中国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
61投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 09時59分53秒

縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

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現在の日本人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からは見つかっていない
(ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間)
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現在の琉球人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2*--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a)

現在の韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル人 C3: 11.3%

現在の中国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
62投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 11時03分08秒
縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

__________

現在の日本人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からは見つかっていない
(ブラク民、小作人、今でも社会の底辺の人間)
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O2---20%(旧表記O3):漢民族系 :武家、公家、天皇一族、現在も支配階級
C2----6% :縄文系山人 、今は僻地の山奥で林業・炭焼きとかしている
C1----5% :縄文系海人 、今は漁師
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 : 地主・庄屋になった
O1a---1% :長江系稲作民
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

63投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 11時03分18秒
現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現在のニヴフ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
C2 38.1%: オホーツク文化人系
O1b2 28.6%: 長江系稲作民
Q 19.0% : 匈奴・フン族系
R1a 9.5% : スラブ人系

現在の琉球人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2*--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b):長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a)

現在の韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル人 C3: 11.3%

現在の台湾先住民のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 11.7%
長江人 O1 :80.3%

現在の中国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
64投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 11時10分47秒
▲△▽▼

ニニギノミコトが天下ったのは九州ではなく韓国ソウルにある高千穂だった:

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授 (2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。
百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。

 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。
 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。「所居北亀旨(クシ)」。今も首露を祀っている廟があります。「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。
変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。
 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」「日向の槵日の高千穂の峰」「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。いずれもクシという字があります。朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。それだけではなく
「日向の襲の高千穂の添山峰」。それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。

わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。
朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。

韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。

高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
65投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 11時22分28秒
本当の事は誰も言えない _ 天皇家のルーツや遺伝子を研究すると迫害されて大学から追放される

伏見宮で男系維持は不可能 _ 邦家 貞敬親王の時点でY染色体に大規模な変化が起こった
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


『源氏物語』に描かれている様に、天皇家では系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている天皇がいる可能性が非常に大きい

皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ系図の間違いを取り入れたのは、そういう過去の事例を良く知っていたからでしょう。

継体天皇を天皇家の始祖とした場合、今上天皇は53回の父子継承となりますが、継体天皇とずっと父系でつながっている確率は60%乃至80%程度だと言われています。
(ヨーロッパ王室の系図でY染色体に大規模な変化が起こった比率を元に算出)

▲△▽▼

因みに、民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である ために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。この話はあるメディアに流れました。
66投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 11時32分33秒
現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現在のニヴフ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
C2 38.1%: オホーツク文化人系
O1b2 28.6%: 長江系稲作民
Q 19.0% : 匈奴・フン族系
R1a 9.5% : スラブ人系

現在の琉球人の Y-DNAハプログループ比率
D1a2*--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b):長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a)

現在の韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル人 C3: 11.3%

現在の台湾先住民のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 11.7%
長江人 O1 :80.3%

現在の中国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : 満州人・モンゴル人
N 6.9% : トルコ系
67投稿者:2  投稿日:2019年12月14日(土) 17時08分17秒
時代を動かした昭和天皇の言葉

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

▲△▽▼

沖縄に関する昭和天皇メッセージ
(日本独立後も沖縄を米国に50年等の長期租借を提案) 

進藤榮一筑波大教授が、米国から帰国後、沖縄分割に関する天皇メッセージ電文を発掘掲載した衝撃的論文「分割された領土」(岩波書店の月刊誌『世界』1979年4月号)で発表した。
同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた昭和天皇の見解をまとめたメモ。

総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡 

 国務長官殿 在ワシントン拝啓天皇の顧問、寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。
 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。                              
敬具                
合衆国対日政治顧問 代表部顧問 W.J.シーボルト        
東京 1947年9月22日

天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。  寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。

天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼及び左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。

 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借
――25年ないし50年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。
68投稿者:2  投稿日:2019年12月15日(日) 07時55分55秒
3000万人殺した反共の昭和天皇の方が 1億人殺した共産主義者より遥かに効率がいいですね:

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

▲△▽▼

反共の昭和天皇の為に数千万人が太平洋戦争で死んだ

15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の犠牲をもたらしました。

日本の侵略戦争は、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者をふくむ史上最大の惨害をもたらしました。この数は、各国の政府公表あるいは公的発表にもとづくものです。

 中国1000万人以上(「中国の人権状況」中国国務院=ただし37年7月〜45年8月まで。他に2000万人との報告もある)、

べトナム200万人(独立宣言)、
インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、
フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、
インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、
ニュージーランド1万1625人(政府公表)、
オーストラリア2万3365人(同)、
そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。

ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。

さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。

▲△▽▼

日本占領下、ベトナムで200万人が餓死

 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944〜45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。

 92〜95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。

 日本は、インドシナを支配していたフランス植民地当局に圧力をかけ、40年9月22日に結んだ協定で、日本軍のベトナム北部駐留を認めさせ、翌日から駐留を強行(仏印進駐)。アジア太平洋戦争開始の翌日、41年12月9日に結ばれた日本・仏印協定で日本支配はより強化され、フランス植民地機構は日本支配の下請けと化しました。45年3月9日には、仏植民地機構を武力で解体、単独支配を敷きました(仏印処理)。こうした状況で起きたのが、大量餓死という同国史上空前絶後の惨事でした。

 原因として、バン・タオ教授は、(1)日本がフランス植民地機構を下請けにして、食料を安い価格で強制的に買い付けた、(2)ジュートなど戦略物資を得るために稲作面積を減らした、(3)北部で天候不順による凶作が起きた、(4)豊作だった南部から米が北部に運ばれなかった―という4点をあげています。

 しかし、問題は、何が致命的原因になったかということです。同教授は、凶作が不可避だったとしても他の原因がなければ、飢餓はずっと軽微ですんだはずだと指摘しています。

 01年11月、ホーチミン市にある戦争証跡博物館などの主催で、ベトナムに対する戦争犯罪に関するシンポジウムが開かれましたが、北部の飢餓の最中にも、仏植民地当局がサイゴンに35万トン、チョロンに20万トンのもみを、日本軍もサイゴンに20万トンの米を備蓄していたと報告されました。(俊)
69投稿者:2  投稿日:2019年12月16日(月) 08時54分53秒
3000万人殺した反共帝国主義者の昭和天皇の方が 1億人殺した共産主義者より遥かに効率がいいですね:

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から共産思想を持っていそうな人間を全員検挙・拷問した:

【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title


昭和天皇は麻薬ビジネスでボロ儲けする為に満州・中国・東南アジアを侵略した
大東亜共栄圏は満州で栽培したケシを北朝鮮でモルヒネ・ヘロインに加工して中国・東南アジアで売り捌く為に構想したが、欧米から麻薬ビジネスを非難されて国際連盟を脱退した:

【ノモンハン戦役】 J 阿片 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2460&v=i3tujEr9EHg&feature=emb_title

満州国周辺は、阿片の原材料である芥子の世界的な産地であり、満州国の行政・経済を支配していた関東軍は、阿片ビジネスによって、自軍の軍資金や国家の資金を荒稼ぎしていた。

 販売ルートは、満州国政府専売局が芥子栽培組織から原材料を入手し、阿片に加工した後、上海や香港を経由して中国内陸部にまで販売するというものだった。

 阿片の利益は膨大で、満州国建国の8年目の利益は、その年の国家予算の約6分の1に相当する、1億2千万円(現在の価格で約2千億円)にもなったとされる。

70投稿者:2  投稿日:2019年12月16日(月) 08時55分04秒
▲△▽▼

反共の昭和天皇の為に数千万人が太平洋戦争で死んだ

15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の犠牲をもたらしました。

日本の侵略戦争は、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者をふくむ史上最大の惨害をもたらしました。この数は、各国の政府公表あるいは公的発表にもとづくものです。

 中国1000万人以上(「中国の人権状況」中国国務院=ただし37年7月〜45年8月まで。他に2000万人との報告もある)、

べトナム200万人(独立宣言)、
インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、
フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、
インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、
ニュージーランド1万1625人(政府公表)、
オーストラリア2万3365人(同)、
そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。

ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。

さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-11-04/faq12_01.html

▲△▽▼

日本占領下、ベトナムで200万人が餓死

 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944〜45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。

 92〜95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。

 日本は、インドシナを支配していたフランス植民地当局に圧力をかけ、40年9月22日に結んだ協定で、日本軍のベトナム北部駐留を認めさせ、翌日から駐留を強行(仏印進駐)。アジア太平洋戦争開始の翌日、41年12月9日に結ばれた日本・仏印協定で日本支配はより強化され、フランス植民地機構は日本支配の下請けと化しました。45年3月9日には、仏植民地機構を武力で解体、単独支配を敷きました(仏印処理)。こうした状況で起きたのが、大量餓死という同国史上空前絶後の惨事でした。

 原因として、バン・タオ教授は、(1)日本がフランス植民地機構を下請けにして、食料を安い価格で強制的に買い付けた、(2)ジュートなど戦略物資を得るために稲作面積を減らした、(3)北部で天候不順による凶作が起きた、(4)豊作だった南部から米が北部に運ばれなかった―という4点をあげています。

 しかし、問題は、何が致命的原因になったかということです。同教授は、凶作が不可避だったとしても他の原因がなければ、飢餓はずっと軽微ですんだはずだと指摘しています。

 01年11月、ホーチミン市にある戦争証跡博物館などの主催で、ベトナムに対する戦争犯罪に関するシンポジウムが開かれましたが、北部の飢餓の最中にも、仏植民地当局がサイゴンに35万トン、チョロンに20万トンのもみを、日本軍もサイゴンに20万トンの米を備蓄していたと報告されました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-14/12_01ftp.html

上記の死者数等に疑問が有る方は日本共産党に問い合わせて下さい
71投稿者:2  投稿日:2019年12月16日(月) 10時02分30秒
3000万人殺した反共の帝国主義者 昭和天皇の方が 1億人殺した共産主義者より遥かにタチが悪いですね:

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から共産思想を持っていそうな人間を全員検挙・拷問した:

【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title


昭和天皇は麻薬ビジネスでボロ儲けする為に満州・中国・東南アジアを侵略した
大東亜共栄圏は満州で栽培したケシを北朝鮮でモルヒネ・ヘロインに加工して中国・東南アジアで売り捌く為に構想したが、欧米から麻薬ビジネスを非難されて国際連盟を脱退した:

【ノモンハン戦役】 J 阿片 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2460&v=i3tujEr9EHg&feature=emb_title

満州国周辺は、阿片の原材料である芥子の世界的な産地であり、満州国の行政・経済を支配していた関東軍は、阿片ビジネスによって、自軍の軍資金や国家の資金を荒稼ぎしていた。

 販売ルートは、満州国政府専売局が芥子栽培組織から原材料を入手し、阿片に加工した後、上海や香港を経由して中国内陸部にまで販売するというものだった。

 阿片の利益は膨大で、満州国建国の8年目の利益は、その年の国家予算の約6分の1に相当する、1億2千万円(現在の価格で約2千億円)にもなったとされる。
72投稿者:2  投稿日:2019年12月16日(月) 10時16分19秒

77 7
1 秒前

@賀川靖文
くららは正論やチャンネル桜と違って嘘が少ないから参考にしてるんだ。

これ聞いて、レーニンが昭和天皇と同じ位のワルだとわかったし:

日本人だけが知らないインテリジェンス「○○狂レーニンの武器チェカー」柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】
https://www.youtube.com/watch?v=33n514jXkeA
73投稿者:2  投稿日:2019年12月16日(月) 10時22分06秒
くららは正論やチャンネル桜と違って嘘が少ないから参考にしてるんだ。

これ聞いて、レーニンが昭和天皇と同じ位のワルだとわかったし:

日本人だけが知らないインテリジェンス「○○狂レーニンの武器チェカー」柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】
https://www.youtube.com/watch?v=33n514jXkeA

昭和天皇はレーニンの恐ろしさを聞いて怖くなってアメリカと八百長戦争したんだよ
ソ連に日本を占領されるよりアメリカに占領して貰った方が絶対にいいもんね:

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes
74投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 09時55分54秒
大嘗宮の鳥居は丸太を使った神明鳥居(伊勢鳥居)

鳥居の種類
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

鳥が留まっていなかったので弥生人の原初の鳥居ではなく朝鮮人が外見だけ本物に似せて作った形式的な鳥居ですね。

___

弥生人の原初の鳥居
吉野ヶ里遺跡の紹介:門と鳥形|吉野ヶ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

____

日本の神社で見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域に住んでいた時代(百越人)の「鳥居」という説があります。

百越(ひゃくえつ。越族・粤)は古代中国の江南と呼ばれる長江以南から、現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。

日本人のもつ信仰の源流があるように思われます。
75投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 10時15分13秒
大嘗宮の鳥居は皮付き丸太を使った神明鳥居(伊勢鳥居)
守り神の鳥の像が置かれていないので、弥生人の鳥居ではなく朝鮮人が外見だけ本物に似せて作った形式的な鳥居ですね。

鳥居の種類
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85
___

弥生人の鳥居
吉野ヶ里遺跡の紹介:門と鳥形|吉野ヶ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

アカ族のオリジナルの鳥居
https://www.google.co.jp/search?lr=lang_ja&rlz=1I7AWNC_jaJP826&tbs=lr:lang_1ja&sxsrf=ACYBGNSVq4y9vFACeeD8Uw8PeodDdFpqpA:1576630621558&q=%E9%B3%A5%E5%B1%85++%E3%82%A2%E3%82%AB%E6%97%8F&tbm=isch&source=univ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjkho_h_r3mAhXEUN4KHV7ZBqsQsAR6BAgKEAE&biw=1090&bih=585#spf=1576630625268

____

日本の神社で見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域に住んでいた時代(百越人)の「鳥居」という説があります。

百越(ひゃくえつ。越族・粤)は古代中国の江南と呼ばれる長江以南から、現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。

日本人のもつ信仰の源流があるように思われます。



鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括っています。

そして、雲南省や隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲む、タイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」があるとのべています。

アカ族の村の門には鳥の木形が置かれ、これと同じ鳥の木形は日本の弥生稲作文化の始まりとされる、池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっています。
76投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 10時36分33秒
大嘗宮の鳥居は皮付き丸太を使った神明鳥居(伊勢鳥居)
守り神の鳥の像が置かれていないので、弥生人の鳥居ではなくチョウセンからの渡来人が3世紀代に外見だけ本物に似せて作った形式的な鳥居ですね。

鳥居の種類 (AC200 - 現在)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85
___

弥生人の鳥居(BC500 - AC200)
吉野ヶ里遺跡の紹介:門と鳥形|吉野ヶ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

アカ族のオリジナルの鳥居(BC5000 - 現在)
https://www.google.co.jp/search?lr=lang_ja&rlz=1I7AWNC_jaJP826&tbs=lr:lang_1ja&sxsrf=ACYBGNSVq4y9vFACeeD8Uw8PeodDdFpqpA:1576630621558&q=%E9%B3%A5%E5%B1%85++%E3%82%A2%E3%82%AB%E6%97%8F&tbm=isch&source=univ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjkho_h_r3mAhXEUN4KHV7ZBqsQsAR6BAgKEAE&biw=1090&bih=585#spf=1576630625268

____

日本の神社で見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域に住んでいた時代(百越人)の「鳥居」という説があります。

百越(ひゃくえつ。越族・粤)は古代中国の江南と呼ばれる長江以南から、現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。

日本人のもつ信仰の源流があるように思われます。



鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括っています。

そして、雲南省や隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲む、タイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」があるとのべています。

アカ族の村の門には鳥の木形が置かれ、これと同じ鳥の木形は日本の弥生稲作文化の始まりとされる、池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっています。



今日の雲南省・江蘇省や浙江省で見られる陵の入り口や、街の入り口で見られる鳥居様の門は三輪鳥居に酷似しています。

現在もアカ族の村の入口と村の反対側には、鳥居である木と竹で造られた二メートル前後の高さの門が建っています。
77投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 13時06分02秒
皇室では白村江の戦いで負けてから、唐の指示でチョウセンと同じ儒教の男系長子相続制を取っています:

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・朝鮮では女は分家できない・朝鮮では死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・朝鮮の姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿には朝鮮の姓を明記してある)

・朝鮮では男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・朝鮮では子は親に絶対服従する

・朝鮮では忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・朝鮮では一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・朝鮮では本貫で男系血統が同じであることを確認する

・朝鮮人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・朝鮮の婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・朝鮮では女系は他人であって一家ではない
78投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 13時12分39秒
皇室では天智朝以前は長子相続ではなく兄弟相続で、一番聡明な皇子を天皇に選んでいました。
白村江の戦いで唐と新羅に負けてから、唐の指示で新羅と同じ儒教の男系長子相続制に変更したのですね :

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・朝鮮では女は分家できない・朝鮮では死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・朝鮮の姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿には朝鮮の姓を明記してある)

・朝鮮では男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・朝鮮では子は親に絶対服従する

・朝鮮では忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・朝鮮では一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・朝鮮では本貫で男系血統が同じであることを確認する

・朝鮮人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・朝鮮の婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・朝鮮では女系は他人であって一家ではない
79投稿者:2  投稿日:2019年12月18日(水) 21時55分15秒
鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
80投稿者:2  投稿日:2019年12月20日(金) 11時13分27秒

大日本帝国は大英帝国を真似たもの


イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった

アジアを支配した東インド会社は世界最強の企業だった東インド会社は世界と貿易するため、立ちふさがる者を倒し支配し奪った

現代の企業の始まりは東インド会社で、大航海時代に大成功した半面、アジアで悪行の限りを尽くしたことで知られている。


東インド会社が大成功した理由は強力なイギリス海軍や自前の軍隊を持っていたことだが、会社がもつ柔軟性によるところが大きい。まず宣教師や牧師や商人が原住民と親しくなり、次に貿易商人が経済を支配し、最後に軍隊が相手国を支配する。

イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。


 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。


明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。
81投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 11時18分28秒
Y-DNAに基いた皇位継承は無意味です、日本人の半数は天皇の遠い子孫ですから
そもそも男性長子相続はチョウセンの相続法です
皇室では天智朝以前は長子相続ではなく兄弟相続で、一番聡明な皇子を天皇に選んでいました。
白村江の戦いで唐と新羅に負けてから、唐の指示で新羅と同じ儒教の男系長子相続制に変更したのですね :

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・朝鮮では女は分家できない・朝鮮では死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・朝鮮の姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿には朝鮮の姓を明記してある)

・朝鮮では男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・朝鮮では子は親に絶対服従する

・朝鮮では忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・朝鮮では一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・朝鮮では本貫で男系血統が同じであることを確認する

・朝鮮人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・朝鮮の婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・朝鮮では女系は他人であって一家ではない
82投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 11時20分50秒
Y-DNAに基いた皇位継承は無意味です、日本人の半数は天皇の遠い子孫ですから
そもそも男性長子相続はチョウセンの相続法です
皇室では天智朝以前は長子相続ではなく兄弟相続で、一番聡明な皇子を天皇に選んでいました。
白村江の戦いで唐と新羅に負けてから、唐の指示で新羅と同じ儒教の男系長子相続制に変更したのですね :

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・チョウセンでは女は分家できない・チョウセンでは死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・チョウセンの姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿にはチョウセンの姓を明記してある)

・チョウセンでは男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・チョウセンでは子は親に絶対服従する

・チョウセンでは忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・チョウセンでは一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・チョウセンでは本貫で男系血統が同じであることを確認する

・チョウセン人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・チョウセンの婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・チョウセンでは女系は他人であって一家ではない
83投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 11時33分00秒
男性長子相続はチョウセンの相続法です
皇室では天智朝以前は長子相続ではなく兄弟相続で、一番聡明な皇子を天皇に選んでいました。
白村江の戦いで唐と新羅に負けてから、唐の指示で新羅と同じ儒教の男系長子相続制に変更したのですね :

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・チョウセンでは女は分家できない・チョウセンでは死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・チョウセンの姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿にはチョウセンの姓を明記してある)

・チョウセンでは男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・チョウセンでは子は親に絶対服従する

・チョウセンでは忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・チョウセンでは一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・チョウセンでは本貫で男系血統が同じであることを確認する

・チョウセン人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・チョウセンの婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・チョウセンでは女系は他人であって一家ではない

今の天皇一族は神武天皇はおろか継体天皇とも血が繋がっていないと言われていますから、もうチョウセンの仕来りに従う必要もないですね。
84投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 16時44分32秒
大正天皇のことを少し喋ろうと思います
あの子がしくに東区にというのが戦後師匠になりますけど
この男のことを少し喋ろうと思います
もうあのスキャンダルだらけの日本ですが
大正天皇は子種がありませんでした
これは歴史的に間違うあの
現在しかは認めません
でも小札はありませんでした小大正天皇に
子ザメがなかったと
それで
大正天皇に子種がないから
昭和天皇はなぜ者生まれたかということを
東組が
母の司という男にしゃべります
それが子種がないんで
庁は天皇はじゃあなぜ生まれたかったなそこまでは言われないんだけど
低迷はえらくを昭和天皇の父親を切らてた道
いうことです
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PL7ozjMqLc1qSGbbZmsKVJnuc5kmR8WpZL&index=2
85投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 19時27分40秒
大正天皇のことを少し喋ろうと思います
あの東久邇というのが戦後師匠になりますけど
この男のことを少し喋ろうと思います

大正天皇は子種がありませんでした
https://www.youtube.com/watch?v=-Y-qRjYup2c=2
86投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 19時36分47秒
大正天皇のことを少し喋ろうと思います
あの東久邇という男が戦後首相になりますけど
この男のことを少し喋ろうと思います

大正天皇は子種がありませんでした
https://www.youtube.com/watch?v=-Y-qRjYup2c=2
87投稿者:2  投稿日:2019年12月21日(土) 23時24分55秒
大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。

私個人としては昭和天皇(弟3人含めて)の父親は、大正天皇だと思っている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。

まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。
この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。

次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。 この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。 また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。

ここで疑問に思うのは、以下の3点である。

1.東久邇稔彦の発言の信憑性 東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。

2.三笠宮誕生の必要 明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。

3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。

あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。 原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。
88投稿者:2  投稿日:2019年12月22日(日) 03時36分09秒
天皇家の系図自体が生物学的な系譜と違うので、女系にしても大した問題ではないんですけどね:

大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。

私個人としては昭和天皇(弟3人含めて)の父親は、大正天皇だと思っている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。

まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。
この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。

次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。 この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。 また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。

ここで疑問に思うのは、以下の3点である。

1.東久邇稔彦の発言の信憑性 東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。

2.三笠宮誕生の必要 明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。

3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。

あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。 原武史は、大正天皇に万が一

鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日
https://www.youtube.com/watch?v=-Y-qRjYup2c=2

89投稿者:5  投稿日:2019年12月22日(日) 12時09分31秒
男性長子相続はチョウセンの相続法です
皇室では天智朝以前は長子相続ではなく兄弟相続で、一番聡明な皇子を天皇に選んでいました。
白村江の戦いで唐と新羅に負けてから、唐の指示で新羅と同じ儒教の男系長子相続制に変更したのですね :

儒教の男系長子相続制

・直系女性の分家を認めず、

・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、

・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかったそうです。儒教の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える

・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・チョウセンでは女は分家できない・チョウセンでは死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・チョウセンの姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿にはチョウセンの姓を明記してある)

・チョウセンでは男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・チョウセンでは子は親に絶対服従する

・チョウセンでは忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・チョウセンでは一家の家計は夫が管理する・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・チョウセンでは本貫で男系血統が同じであることを確認する

・チョウセン人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・チョウセンの婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・チョウセンでは女系は他人であって一家ではない

今の天皇一族は神武天皇はおろか継体天皇とも血が繋がっていないと言われていますから、もうチョウセンの仕来りに従う必要もないですね。
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鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。 この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。 また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。

鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日
https://www.youtube.com/watch?v=-Y-qRjYup2c=2
90投稿者:2  投稿日:2019年12月22日(日) 16時15分15秒
秩父宮の事績が完全に抜け落ちていますね:
2.26事件は天皇兄弟の謀略 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=omlnJLmcDYM&feature=emb_title

このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。

『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。

『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。

『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。
91投稿者:2  投稿日:2019年12月22日(日) 16時32分13秒
昭和天皇の事績が抜け落ちていますね、東京裁判で東条英機は作戦はすべて昭和天皇一人で決めたと証言しています:
昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」


「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。


 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。


終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。


 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。


東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。これは当時としては真実である。


しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
92投稿者:2  投稿日:2019年12月25日(水) 17時03分53秒
東京裁判で東条英機は作戦はすべて昭和天皇一人で決めたと証言しています。そして昭和天皇の戦争責任を証言しようとした近衛文麿の運命は
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
93投稿者:2  投稿日:2019年12月26日(木) 19時18分45秒
真実は天皇一族は漢民族
天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨

従来 弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江人、後期は漢民族系半島人で、完全に別民族です。



天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作り半島との交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系半島人です。



漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口



天皇一族は半島を追われて日本に移民して以降



中国華北 → 韓国ソウル

→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹後 → 北九州、瀬戸内、畿内

→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土



の順に支配地域を広げて行った様です。
一部を表示
94投稿者:2  投稿日:2019年12月26日(木) 19時21分01秒



天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作り半島との交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系半島人です。
95投稿者:2  投稿日:2019年12月26日(木) 19時22分49秒
知ってはいけない真実

天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作り半島との交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系半島人です。
96投稿者:2  投稿日:2019年12月26日(木) 19時26分01秒
知ってはいけない真実 (書くと必ず削除されるんだな)

大和朝廷は弥生時代後期に北九州に植民市を作りxxとの交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系xx人です。
97投稿者:2  投稿日:2019年12月26日(木) 22時19分29秒
知ってはいけない真実?
大和朝廷は弥生時代後期に北九州に植民市を作りxxとの交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、漢民族系xx人です。

▲△▽▼
ニニギノミコトの弟が北九州の伊都国から天下った丹後 籠神社

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。
 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。
 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。
息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken
 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
98投稿者:2  投稿日:2019年12月27日(金) 05時10分45秒
天照大神の墓は北九州伊都国の平原遺跡だった

原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』
原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。
平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。
これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、
はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。
森浩一氏も、この原田説を支持され、「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」
と述べておられる(『日本神話の考古学』)。

 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう
玉依姫ということになる。その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、
当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、
「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。
その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、
お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、
アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」
とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、
現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。
99投稿者:2  投稿日:2019年12月27日(金) 11時44分50秒
真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。

パリ平和会議日本全権大使一行としてヨハンセングループがパリに赴き、そのシナリオを受け取り昭和天皇に渡す。ヨハンセングループは真珠湾攻撃を演じさせる役者を物色する。

真珠湾攻撃の重要なポイントは鮮やかな奇襲ではなく、
わざと通達を遅らせ卑怯な騙まし討ちにすることにある。
アメリカ国民と議会を怒り心頭にし即参戦させ、
ジャップスを無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させるためである。
八百長だから連合艦隊司令長官が第二次第三次攻撃を指揮することは許されない。

白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェント。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。

それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。
100投稿者:2  投稿日:2019年12月27日(金) 11時52分23秒
米国と戦う事になった原因 この人も誤解していますね
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。

白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェント。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。

それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。
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101投稿者:2  投稿日:2019年12月27日(金) 13時10分36秒
米国と戦う事になった原因 この人も誤解していますね
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html
第一次世界大戦が終了した直後の1919年6月、
「パリ平和会議」という名前の次の戦争を練る会議が開催される。
日本の全権大使一行の内訳は西園寺公望、その私設秘書である近衛文麿、
牧野伸顕、その私設秘書である女婿の吉田茂。松岡洋右以下略。

真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。

白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェント。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。

それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。
102投稿者:2  投稿日:2019年12月29日(日) 00時06分31秒
戦前の日本も監視社会だった
昭和天皇は天皇家存続をかけてアメリカ軍と組んで、共産革命を画策している日本の一般大衆をやっつけてもらった:
昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険な人間をすべて検挙・拷問していった:
【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1475&v=oU8v5P2O3hA&feature=emb_title


アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:




日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
103投稿者:2  投稿日:2019年12月29日(日) 19時31分58秒
天照大神は北九州に住んでいた渡来人だよ
天照大神の墓は北九州伊都国の平原遺跡だった
原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』
原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。

八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。



「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。

これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、

はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」



原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

森浩一氏も、この原田説を支持され、「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。



 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう

玉依姫ということになる。その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、

当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。

その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、

お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、

アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、

現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 



 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。
104投稿者:5  投稿日:2019年12月30日(月) 13時03分56秒
鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。 この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。 また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。

鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日
https://www.youtube.com/watch?v=-Y-qRjYup2c=2
105投稿者:2  投稿日:2020年01月01日(水) 12時40分08秒
1941年8月まで、昭和天皇以外の軍人・政治家は真珠湾の事すら知らなかった

原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。
それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。



 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。



それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。



 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。

国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。
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