人類の起源 [社会]
1投稿者:777  投稿日:2009年03月15日(日) 14時38分07秒

日本人の起源
http://www.amezor.to/shiso/071019230213.html

古代中国人は白人だった
http://www.amezor.to/shiso/080907143515.html

の続編です.
2投稿者:777  投稿日:2009年03月21日(土) 18時08分33秒

親しいからこそ性行為を求めない

−−人間にとっての性は、生殖をいちばんの目的とするのではなく、コミュニケーション自体を目的とする手段になったということですか?

山極:そういえるかもしれません。売買春が存在するのは、性が安易なコミュニケーション手段にもなりえるからです。人間の幻想の中で大きいのは、「セックスをすると仲良くなれる」というものです。霊長類の場合、性交をしても仲良くなりませんし、仲良くなるためにしているわけでもありません。

−−だとすると、動物はなんのためにセックスするのでしょうか?

山極:ただ性欲を満たすためです。セックスすること自体が目的なのです。ニホンザルもゴリラも交尾をしたからといって、その異性間に特別な絆が生まれるわけではありません。

 むしろ絆のある雄雌は、性交しないことが多い。嵐山のニホンザルの行動から発見されたのは、発情期に特定の雄と雌はペアになり、そのうち雌は交尾した雄を利用し、餌を取るようになります。非交尾期になっても、雌がその雄の後をついて歩くようになりますが、そういう仲良くなったペアは交尾しなくなります。

−−ということは、親密さや愛着が性交渉を回避させているというわけですか?

山極:そうなりますね。バーバリマカクやゴリラの雄は、自分の子でない特定の雌の子どもを世話することがあります。この二者は、実の親子でなくても交尾を避けあうのです。生まれてから子どもが育つ間に生じた何らかの親密な関係性が性交渉を防ぐ結果になっているようです。

 これは人間にも当てはまるようです。19世紀末、社会学者のエドワード・ウェスターマークが「未開」民族を研究したところ、親子を含め幼児期に親しくなった異性同士は、性交渉を避けあう関係になると報告しています。

−−同時代人のフロイトは、逆の考えを持っていましたが、その報告を知らなかったのでしょうか?

山極:フロイトはその説を黙殺しました。彼は幼児期の性衝動は、息子は母に、娘は父にといったように、近親者へ向けられ、それが禁止されることでエディプス・コンプレックスを抱くと考えました。それを乗り越えることで、正常な性愛を身に付けるという成長のプロセスを描いた。

 ところがウェスターマークの説によると、エディプス・コンプレックスを持たずとも、親子は放っておいてもセックスしない。どうやら、異性間に育まれたある種の親しさは性行為を求めないようです。

http://asyura2.com/09/nature4/msg/105.html

3投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時16分25秒

『ネイティブアメリカンの先祖は日本から来た』

アジアからアメリカへと渡った最初の人類は日本で生活していた種族だったかもしれない。ミシガン大学人類学博物館のローリング・ブレイスによると、縄文時代のアイヌ人がベーリング海峡を渡り、アラスカから南アメリカの先端まで広がったことを示す結果が、骨格調査などからわかったという。彼らは約15‚000年前にアメリカに到着、約1‚000年以内に南アメリカの先端で生活をはじめたらしい。ブラックフット族、スー族、チェロキー族を含む、アメリカインディアン種族の多くがこの種族を先祖に持っている。やがて、ベーリング海峡の氷が溶けた頃(約3000〜4000年前)に東南アジア、モンゴル系の民族がボートでやって来て、イヌイットおよびアレウト族、そしてナバホになったという(WorldScientist)
http://www.lizard-tail.com/isana/review/view.php?search_id=20010631154644

1996年に、アメリカ ワシントン州コロンビア川からで発見された遺骨が、その後の調査で、今から約9300年前の物とわかり、大騒動となったことがあります。これは後にケネウィックマンと名づけられたのですが、その特徴は研究が進むにつれ明らかになってきました。2001年7月、ミシガン大学のローリング・ブレース博士の研究グループによりケネウィックマン縄文人説を裏付ける更なる証拠が出てきたというのです。「kitombo.com」というサイトで詳しく紹介されている記事が非常に興味をそそられます。以下引用さていただきました。 

ブレース博士等は、北米の西部地域及びアジア大陸に住む現在の住民、及び古代人の1000人分以上の頭蓋骨を21箇所の解剖学的基準に基づいて比較検討した。それぞれの測定結果を、デンドログラムと呼ばれるツリー状のグラフにまとめた結果、古い時代のアメリカ先住民は、現在のアメリカ先住民や北方アジア人とはまったく似ていない事がわかったのだ。

 古代のアメリカ先住民に最も近いのは、縄文人と現在のアイヌ人、ポリネシア人という結果だった。いわゆる古モンゴロイドと呼ばれている集団である。ブレース博士等は、これらの研究結果に基づきアメリカ最初の移住者は、約1万5000年前の氷河期に日本から移住してきた縄文人であり、約5000年前に北方アジアから移住した人々が先住の縄文人と入れ替わり現在のアメリカ先住民になったと言う仮説をたてた。

中には1万2000年前より古いと考えられている物もある。そして、これら古い人骨の研究が進んだ結果、初期のアメリカ先住民は、北東モンゴロイド系とは、異なる特徴を持っていたことが明らかになった。

 まず、最も話題を集めているケネウィックマンから、話をすすめよう。この人骨は、アメリカ・ワシントン州で発見されたもので、発見当初、白人の特徴を備えていると話題になった。しかし、後の研究からは、日本のアイヌ人やポリネシア人により近い事が判明し、古モンゴロイド系であると考えられるようになった。(詳しくは黄トンボコラム内ケネウィックマン及び楽園を求めた縄文人参照)
4投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時17分58秒

このケネウィックマン以外でも、2002年にも、メキシコでアメリカ最古級になる1万3000年前の人骨が確認されているようです。他にもエクアドルのバルでリビア遺跡から出土する土器が縄文土器と酷似しているとか、明らかに古モンゴロイドが太平洋を渡ってきたと見られる証拠が次々に出てきています。

一九九五年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証から、さかのばってみよう。  第一は、「HTLV I(ローマ字)型の論証」である。一九九四年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV I(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。・・・・  第二は、「寄生虫の論証」である。一九八○年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。それによると、南米の北・中部に分布する、モンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジヤー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。・・・・・・(略)いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への、人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。・・・・・(後略)
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/11/000626.html
5投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時30分26秒

ワシントン(AP) 先史時代、アメリカ大陸に渡ってきた最初の人間が、縄文時代に日本に住み、後にアイヌ人となった先史民
族ではないかという説が浮上した。米ミシガン大学人類学博物館が中心となり、世界中から集めた古代人の頭蓋骨約1万個の
分析・比較研究結果が31日発表された。

研究の指揮を取ったC.ローリング・ブレース氏によると、コンピューターを使い、骨の構造など詳細な分析を実施した結果、米
国の先住民の骨の特徴が、縄文時代に日本に住んでいた民族のものと非常に似通っているが分かったという。また、これらの
特徴が現在も、アメリカン・インディアンのブラックフット族、スー族、チェロキー族にみられるという。

現在ベーリング海峡に隔てられているアジアと北米大陸だが、当時は、アラスカとシベリアは陸続きであったという説もある。そ
のため、ブレース氏は、縄文時代の民族が陸づたいにアラスカへ渡り、その後、北南米大陸に移住していったとみる。「米大陸
に移住してきた縄文人は、現在の日本人とは違う。アジアから日本に渡ってきた民族だろう」とする。また、これら縄文人がアジ
アの影響以外に、ヨーロッパの特徴も兼ね備えていたことも指摘した。

頭蓋骨の特徴のほか、縄文人が有していたとみられるボートを作る技術も、縄文人が米国の先住民となったことを確証づける
決め手となっているという。ブレース氏は「農耕技術が誕生する数千年前の時代、人々は狩猟に頼る生活を送っていた。新たな
獲物を探して西部に移住するために、ボートが使われていた」と指摘する。日本で発見されている先史時代の白樺の樹皮から
作られたカヌーと、アメリカ・インディアンが使っていたボートは酷似しているという。

アジアから初めてアメリカ大陸への移住は1万5000年前と、ブレース氏はみている。その後1000年以内に各地に移住し、遠
方では南米大陸まで移住していったという。

3000年から4000年前には中国人、東南アジア人、モンゴル人による、アジアからの2回目の移住が行われた。この時すでに
北部の氷が溶け出した後で、移民はベーリング海峡をボートで渡ってきたとみられる。これらの第2次移民のうち、北部に残った
ものがエスキモーやアラスカ西部に住むアレウト族となり、南方に移住したものがナバホ族になったとみられている。
6投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時33分25秒


ブレイスのアイヌ−サムライ説

1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。
鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて
学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。
つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。
いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると
合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。
また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。
絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと
考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。


7投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時34分02秒

何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。
つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。
関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、
ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。

関東人は長頭、朝鮮人は短頭。
とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、
鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。それは何故か解るだろ?
朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。
8投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時45分30秒
消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査

古代の北海道北部に広がった「オホーツク文化」のことは、一般にほとんど知られていない。海岸近くに住居を構え、魚や海獣を捕らえ、犬や豚を飼った人々が、こつぜんと消えた。どんな人たちだったのか。そのナゾに遺伝子から迫る初の研究が、先ごろ北海道大でまとまった。オホーツク海周辺で人間が活発に動いたことを跡付けるもので、歴史書に記録の乏しい北方世界の新しい姿が浮かび上がる。

 オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がった。次第に東部から千島列島まで展開するが、10世紀ごろ姿を消す。日本書紀に見える北方民族の「粛慎(あしはせ)」では、との見方もあるが、考古学・歴史学・民族学などの研究者が解明を試み、サハリンやシベリア、北方の島々の少数民族の名が様々にあがって、決め手はなかった。

■人骨の遺伝子分解

 北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、37体からDNAの抽出に成功。ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析し、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論を導いた。ともに人口数千人の少数民族だ。

 オホーツク人が注目されるのは、ミステリアスであるうえに、アイヌ民族形成のヒントが潜むとみられるからだ。

9投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時45分58秒

弥生文化の時期にも稲作が普及しなかった北海道では、縄文→続縄文→擦文(さつもん)と独自の文化が展開した。アイヌはその流れをくむと考えられてきたが、縄文の系統には無い文化の要素も持つ。代表例は熊を使う儀式で、同じような習俗がオホーツク文化にもあったことが確認されている。

 増田准教授らはオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認した。北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価する。

 では、オホーツク人に近いというニブフは、どんな民族なのか。札幌学院大の白石英才准教授(言語学)によると、ニブフ語は、近隣に似た構造の言語が見あたらない「孤立語」で、ニブフは系統不明の民族。帆を持つ舟を操り、漁労主体の生活だったようだが、近年はロシア化が進んで文化の独自性があいまいになっているという。

 今回の分析には、また、「弥生人の渡来など、日本列島へは移民の波が何度かあったが、オホーツク人の南下は、その最新のものだとわかる」(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授=分子人類学)という意味もある。ただ、彼らが海を渡った理由の解明は、まだこれからのようだ。

■温暖化原因で南下か

 その理由について、北海道開拓記念館学芸員の右代啓視さん(考古学)は、気候変動、なかでも温暖化のためだと考える。オホーツク文化が北海道北部に到達した古墳時代末期は、現在より海水面が1メートルも高い温暖期で、この文化が広がった平安時代の初期には、年間の平均気温が現在より2〜3度は高かったらしい。

 このころ、ユーラシア大陸の反対側では、バイキングと呼ばれた北方の人々が、温暖化を背景に人口を増やし、海へと乗り出して欧州各地を征服、緑の島だったグリーンランドにまで勢力を拡大した。日本列島の北でも、海を舞台にした同様の物語があったのかもしれない。

 最新の科学技術がもたらした分析結果は、気候変動への関心の高まりと重なって、そんな新しい歴史像を描き出そうとしている。(渡辺延志)
10投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時56分01秒

日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに

日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。


 理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。


 両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。
http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。
 研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。
 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。
 さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html

11投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
12投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時50分17秒

アフリカ大陸は、第三紀(新生代の地質年代の区分。約6500万年前から約164万年前までの間をさす)を通して、大陸の大半を占めていた熱帯雨林が次第に縮小し、サバンナや有棟低木林・草原・半砂漠、さらには砂漠の環境が広がっていったことは確かなことが分かってきています。砂漠の環境は、北方氷床が形成された280万年前頃以来、“氷期の乾燥期”に最大に広がるようになったと考えられ、人類が誕生した700万〜500万年前には、まだ砂漠は存在していなかったなかったようです。


「人類は草原(サバンナ)で進化した」「森林を出た類人猿が広大な草原(サバンナ)立ち上がったとき、直立二足歩行する人類が誕生した」と覚えた人は多いと思いますが、新たに見つかった化石などからこうしたこれまでの常識とは異なる、初期人類の置かれた環境が明らかになってきています。

■アフリカ大陸の環境変遷

アフリカ大陸が南半球にあった巨大大陸・ゴンドワナ大陸から分かれて北上し始めた白亜紀後期以来、全球的なプレートの運動に関連して、アフリカ気候の冷涼化と乾燥化を促すようないくつかのイベントが起きました。

一方、アフリカ大陸の内部では、その東半部で、4000万年前頃から真下からの巨大なプリューム(高温で浮力を持った巨大な岩石の塊)の上昇による一大隆起帯の形成が始ました。大地溝帯の誕生をもたらしたこの巨大隆起帯ができたことにより、西からの湿潤な気流の流入が妨げられるようになったので、東部アフリカは次第に乾燥化し、森林からサバンナの環境へと変わっていったとされています。

800万年前頃に起きたこのイベントは、コンゴ盆地の森に住んでいた人類の祖先がサルから分かれて東部アフリカ大地溝帯のサバンナに出て進化するきっかけを与えた、として捉え、人類起源に関する「イーストサイド物語」と称する説(コパン、1994)が唱えられています。しかし、この説に対しては、隆起帯のサルと人とを隔てる分断効果、人類ははたしてサバンナのような開けた環境に適応したのか、東側で森林が消滅するほどの障壁効果があったのか、などの点から見直しが必要とされています。

また、最近チャド北部の砂漠で700−600万年前のものとされる初期人類:サヘラントロプス・チャデンシス (Sahelanthropus tchadensis)の頭蓋骨が発見され(2002)、それが人類の祖先のものかどうかをめぐる論争はあるものの、現在では人類の祖先が大地溝帯に限らない広い地域に分布していたと考えられれています。

では、初期人類が住んでいた場所はどんなところだったのでしょうか?

13投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時51分49秒

■中新世後期〜鮮新世後期(1500〜200万年前)アフリカ大陸の植生

まず、『初期人類の置かれた自然外圧(1)』でも紹介した、「現在のアフリカ大陸の植生図」です。

  A.現在のアフリカ大陸の植生図(クリックで拡大!)

次に、人類が誕生した700〜500万年前のアフリカ大陸の植生地図です。
  B.1500〜200万年前のアフリカ大陸の植生図(クリックで拡大!)
   (野一晴編「アフリカの自然学」古今書院:アフリカ大陸の白亜紀後期以降の植生変遷より作成)


【硬葉樹林】
夏季に雨が少なく乾燥し、冬季には多湿だが温和となる温帯に発達する常緑広葉樹林。おもに地中海性気候の地方にみられ、地中海沿岸ではオリーブやコルクガシなどがあります。「現在のアフリカ大陸の植生図」の地中海植生に該当するようです。

【有棘潅木】
潅木とは低木のことで、有棘潅木とは棘の有る低木のことのようです。この地域は、トゲサバンナとも呼ばれ、有棘潅木が生えているサバンナと考えてよいようです。

1500〜200万年前は、まだ乾燥化が進んでいなかったので砂漠は存在していません。また、熱帯雨林が現在よりも大きく広がっていることが特徴です。気候によって熱帯雨林は拡大・縮小を繰り返していたようです。

初期人類の主な遺跡がある場所の植生を見ると、
・中央アフリカの熱帯雨林とその周辺部に半同心円状に広がるサバンナ・ウッドランドの周辺部
・北東のエチオピア高原と南アフリカ東部のドラケンバーグ山脈の山地植生地帯
などが該当します。

初期人類化石が見つかった地層からは、森林のサルであるコロブスや、木の葉を食べるウシ科の動物などが見つかっていること、また、アフリカで乾燥化が進むのは、250万〜300万年前以降であることから、初期人類が生きた環境は、森林の周辺の草原・湖が混在するような環境だったと考えられています。

「草原・湖が混在する環境」というと、何か穏やかな環境のように思われるかもしれませんが、森林で進化した霊長類にとってはそうではありません。その環境は、霊長類が進化した、豊かな食料が手に入り、外敵から逃れるために枝から枝へ自在に移動できる森林とは大きく異なります。森林の周囲であっても樹上でないならば、それは飢餓の危険もあれば、いつ外敵に襲われるかも知れないような過酷な環境に他なりません。



14投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時53分06秒

■現在のアフリカ大陸の高度分布と初期人類の遺跡位置

次は初期人類の遺跡のある場所の高度を見てみます。
  現在のアフリカ大陸の高度分布図 (クリックで拡大!)

○(白色の丸):初期人類(猿人:アウストラロピテクス属とパラントロプス属)の主な遺跡

中央アフリカの遺跡を除き、大地溝帯を含む高度の高い場所に遺跡が位置していることが分かります。

大地溝帯付近のケニアやタンザニアは、日本のような四季はありませんが、4〜5月は雨季、6〜10月は乾季となります。季節は日本と逆になり、6〜9月は特に朝晩冷え込みます。朝と夕刻のサファリの際はセーターや厚手の暖かい上着が必要と言われます。ケニアの高地(リフト・バレーと中央山岳地帯)は、ケニアの名でも一番過ごしやすい気候ですが、高地であるため日中の最高気温は22〜26℃とあまり高くなく、朝は10〜14℃とかなり冷え込むようです。

アフリカ=暑い、とイメージしがちですが、アフリカの環境は多様ですね。気温が10℃にまで下るとすれば、朝晩の寒さや風から身を守ることが出来る住処(洞窟、岩陰など)を確保することは、初期人類にとって重要な課題の一つだったのだと思われます。現在より気温が低かったから氷河期には、さらに過酷な状況になったのかも知れません。


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初期人類が誕生した時代の自然環境と初期人類遺跡の位置を関連付け、当時の自然環境に迫ってみました。いかがだったでしょうか?

現状では遺跡から発掘される化石証拠が十分でないことから、明確に初期人類が生きた環境を再現することは出来ませんが、霊長類が進化した熱帯雨林とはまったく異なる自然環境に生きていたことは確かなようです。

朝晩は冷さや風に身を震わせ、恒常的な飢えにさいなまれ、いつ外敵に襲われるか恐怖する・・・初期人類が置かれた状況は、そんな過酷なものだったのではないでしょうか。だとすれば、初期人類は、否応なしに洞窟・岩陰・地面の穴などに隠れ住むしかなかったのでしょう。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(るいネット 『実現論』より引用)
『実現論』にあるように、初期人類は、過酷な自然外圧・外敵外圧という逆境下で、残された共認機能を唯一の武器として、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させていくことになります。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000484.html
15投稿者:777  投稿日:2009年05月24日(日) 14時30分10秒

最新の研究によると、400万前の絶滅したヒト属の足首は、既に木登りには適していない形に進化していたということです。

>数百万年前に生息していた人類の祖先は、いままで多くの専門家たちが考えてきたほど「サルっぽく」はなく、木登りも下手であったことが新たな研究により示唆されています。初期の人類は樹上生活をしていたのか、樹上生活を捨て二足歩行をするようになったのかは長く議論の的だったのですが、400万年以上前のヒト族の化石の足首の関節を調査することにより明らかになったそうです。

>現代人ホモ・サピエンスや北京原人・ネアンデルタール人などを含むヒト属(Homo)と、同じヒト亜科(Homininae)ヒト族(Hominini)に属するチンパンジー属(Pan)は約400〜800万年前に共通の祖先から分化したと考えられているのですが、今回研究対象となった化石は分化したのち絶滅したヒト属のものです。

>ミシガン大学の人類学者Jeremy DeSilva博士は、まずウガンダのキバリ国立公園の野生のチンパンジーが樹上で活動する様子を撮影し、ビデオを分析したところ、木に登るときチンパンジーの足首は通常の位置から45度内側へ(アキレス腱を伸ばす方向へ)曲がることがわかりました。それに対し現代人は歩行の際足首を最大15度から20度動かし、それ以上曲げると深刻なケガにつながります。

>DeSilva博士はその後、412万年前から153万年前の類人猿とヒト属の化石の脛骨(けいこつ)と距骨(きょこつ)を比較しました。その結果、ヒト属絶滅種の足首の関節は類人猿よりはるかに現代人に近いことが明らかになりました。つまり人類の進化のごく初期に足首の関節は現在の構造になったということで、二足歩行を始めるとほぼ同時に人類は木登りが下手になり、地上生活を始めるようになったことが示唆されています。

http://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=207307
16投稿者:777  投稿日:2009年06月12日(金) 23時45分33秒

世界最古1万8000年前の土器発見…中国・湖南省

中国湖南省の洞窟(どうくつ)で世界最古となる約1万8000年前の土器が発見された。
当時は、最後の氷期がピークに達していた寒冷な時期。
土器製作は氷期のピーク後、徐々に暖かくなる中で生活の場を広げた人類が始めたとする従来の見方を覆す発見だ。
米ボストン大学や北京大学などの国際研究チームが米科学アカデミー紀要の最新号に発表した。

これまでに青森県やロシアなどで1万数千年前とされる土器が発見されているが、
古い土器の年代分析は難しく、年代値の信頼性などで議論があった。

今回は40以上の試料をもとに正確な分析を行い、日本やロシアの土器よりも
少なくとも1500年以上古いことが分かった。土器製作の南中国起源を裏付けるという。

研究チームは2005年までの発掘で、土器2個以上に相当する多数の破片を発見。
復元された土器の一つは、高さ約30センチの円すい型と推定されている。
年代は、土器片に付着した有機物や地層中の炭、動物骨を材料に、放射性炭素の含有量を調べて決定した。

(2009年6月3日23時29分 読売新聞)
17投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 20時50分48秒

インド・ヨーロッパ語族、9千年前のトルコが起源?
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 中央アジア、インドから欧州ほぼ全域にまたがる大言語グループ「インド・ヨーロッパ語族」の起源が、
約9千年前のトルコの農耕民族の言語にさかのぼることが、共通単語の多さにもとづく言語間の近縁関係の
分析により有力になった。DNA配列の類似度から、生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統
分析を応用した成果。27日付の英科学誌ネイチャーで発表される。言語研究の手法に一石を投じそうだ。

 取り組んだのは、ニュージーランド・オークランド大のラッセル・グレー博士ら。6千年前のロシアの
遊牧民の言語が起源とする定説を覆した。

 印欧語族の87言語を対象に、基本的な2449個の単語について、互いの間に共通語源を持つものが
どの程度あるかを調べ、言語間の近縁関係を数値化した。

 これをコンピューターで統計処理し、「言語の系統樹」を作成。時間軸は、考古学などから得られた
年代も参考にしてはじき出した。

 この系統樹によると、まず約8700年前、トルコ付近にいた農耕民族「ヒッタイト」の言語が登場した。
その後、7千年前までに、ギリシャ語を含むグループやアルメニア語を含むグループが分かれ、
5千年前までに、英・独語、仏語などにつながる数グループができた。

    ◇

 <言語の進化に詳しい新潟大の大西耕二・助教授(進化生物学)の話> 生物学の最新の系統分析の
]理論を言語学に応用することは、10年ほど前に発案されたが、本格的に適用されたのは初めて。
今後の比較言語学の研究の方向に影響を与える成果だ。
18投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 20時54分05秒

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話しアナトリア半島に王国を築いた民族。ハッティの英語名で、旧約聖書の Hitti(ヘテ人、ヘト人)をもとにして、イギリスのA.H.セイスが命名した。

また、この民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。首都はハットゥシャ(ボアズキョイ遺跡)。

ヒッタイト人は黒海を渡って来た北方系民族といわれてきた。しかし、近年、逆にインド・ヨーロッパ語族が、この地域アナトリアを故郷として広がって行ったという説も提唱されている。紀元前1680年頃にクズルウルマック("赤い河"の意)周辺に王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。エジプトの遺跡には、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。

青銅器時代、最初に鉄を使い始めたことで知られている。当時、鉄は隕石からごくまれにしか採れなかったが、トルコのカマン・カレホユック遺跡にて鉄滓が発見されている。近年、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。鉄の製法はヒッタイトが滅びるまでは秘密にされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。通説では紀元前1190年に、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされたとされている。

なお、ヒッタイト王の称号は、タバルナであるが、これは古王国の初代王であるタバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている.


歴史 [編集]
紀元前2000年頃、ヒッタイト人、アナトリアに侵入。
紀元前1680年頃、ヒッタイト古王国の成立。
紀元前1595年頃、メソポタミアの古バビロニアを滅ぼす。
紀元前1450年頃、ヒッタイト新王国の成立。フリ文化の色彩強まる。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマはミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達であった。
紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。
紀元前1190年頃に滅びる。地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたといわれているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった。
王国が滅びたあと、東南アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、新ヒッタイトと呼ばれる都市国家群として活動した。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フリ人と同化していたと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88
19投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時09分39秒

【人類最古の火の使用跡=79万年前、イスラエルの遺跡−炉や食物の燃えかす発見】

 イスラエルの死海近くにある約79万年前の遺跡から、石を集めた炉の跡や食用のオリ
ーブ、野生の大麦、野ブドウなどの燃えかすを発見したと、同国のヘブライ大学などの調
査隊が30日付の米科学誌サイエンスに発表した。雷などによる野火を利用するのではな
く、人為的に火をおこしていたとみられ、人類が火を管理して使いこなしていた最古の確
実な証拠だという。これまでは中国の北京郊外、周口店の洞窟(どうくつ)で、30万〜
50万年前に北京原人が火を使ったとされる跡が最古と考えられており、これを大幅にさ
かのぼる画期的な発見となった。(時事通信)
20投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時13分38秒

先史沖縄人、縄文人とはやや異なる

 沖縄諸島で琉球王朝が成立する以前の貝塚時代のヒトは、祖先であるはずの縄文人や現代沖縄人とは異なるらしいことが分かった。3月に開かれた県立埋蔵文化財センターの研究発表会で、沖縄貝塚人に対する従来観に疑問を差し挟む報告が相次いだ。09年4月3日付読売新聞朝刊の文化欄で報じられた。
 沖縄では本土の縄文時代に縄文文化が広がっていたことが九州の縄文土器の存在などから明らかになっているが、九州に水田稲作の弥生文化が広がっても稲作を受け入れず、狩猟採集の貝塚文化が続いた。その後、歴史時代に入るが、現代の沖縄人の形態的特徴から、途中の貝塚人は縄文人の直系子孫だと考えられていた。
 形質人類学の土井直美・琉球大学准教授によると、本土縄文人よりも貝塚人の頭長は長く、しかも著しい低顔だと発表、縄文人の地域性だけでは説明できないほどの違いと指摘した。
 米田穣・東大大学院准教授は、食性を推定する人骨コラーゲンの炭素と窒素の同位体分析から、貝塚人は魚介類中心の食性で、ドングリなどの植物食が主体だった本土縄文人と異なることに注目、稲作を受け入れなかったのはこうした食性の違いもあったのではないか、と提起した。
 分子人類学の篠田謙一・国立科学博物館研究主幹は県内3遺跡の貝塚人20体の人骨のミトコンドリアDNAの分析から、大当原貝塚(読谷村)の人骨には台湾先住民につながる型を確認、実は貝塚人は遺伝的に均質ではなかったのではないかと指摘した。
 貝塚人の埋葬習俗でもバラエティーに富み、精神文化の多様性がうかがえるともいう。台湾により近い先島では、沖縄諸島と異なる東南アジア系文化が広がっていたことが分かっているので、貝塚文化には先島の影響も考慮しなければならないという指摘もなされた。
 港川人から縄文人、そして貝塚人をへて、現代沖縄人にいたったという単純な見方は、再考を余儀なさされそうだ。

(2009年04月11日 土曜日)

21投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時50分30秒

224 :出土地不明:2005/05/11(水) 11:37:21 ID:HQ7aRIaN
トルコの遺跡から世界最古の鋼、製鉄の起源見直しへ

 トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した紀元前18世紀(アッシリア植民地時代)の鉄片が鋼(はがね)
だったことが、岩手県立博物館の赤沼英男・上席専門学芸員(文化財科学)の分析で判明した。
 これまで世界最古とされてきた紀元前14〜12世紀(ヒッタイト帝国時代)の鋼を約500年さかのぼる発見。
 従来、世界で初めて高度な製鉄技術を確立したのはヒッタイト帝国だと考えられてきたが、アッシリア期の
鋼が確認されたことで、製鉄の起源は根本的な見直しを迫られることになりそうだ。
 同遺跡は中近東文化センター(東京都三鷹市)が1986年から発掘調査を続けている。分析された鉄片は
2点で、幅はいずれも約1センチ、長さは約1〜2センチ。紀元前18世紀の建物跡から94年に出土した。
これらの資料の組織を約1000倍に拡大して観察したところ、強じんな鉄である鋼と確認された。また、蛍光
エックス線分析によって明らかになった炭素の含有量(0・1〜0・3%)からも、鋼であることが裏付けられた。
鋼は、鉄鉱石から不純物を取り除いただけの普通の鉄よりも高度な技術が必要とされ、これまで確認されて
いた最古の鋼は、同遺跡で出土した紀元前14〜12世紀のものだった。
 ヒッタイト帝国の首都ボアズキョイで、鋼のことを示すとみられる「良質の鉄」と記した粘土板文書が発見
されている。この資料からも、ヒッタイトが鋼を作る技術を開発、独占していたとの考えが一般的だった。
今回の発見について、中近東文化センターアナトリア考古学研究所の大村幸弘所長は「メソポタミアから
やってきたアッシリア商人が、優れた冶金(やきん)技術をヒッタイトに伝えた可能性が出てきた。ヒッタイトと
鉄との関係を根本から考え直す必要がある」と話している。
 ◆カマン・カレホユック遺跡=トルコの首都アンカラの南東約100キロに位置する、基底部の長径約280
メートル、高さ約16メートルの楕円(だえん)形の遺丘。紀元前約2300年から、アッシリア植民地時代、
ヒッタイト帝国時代などを経て、オスマン・トルコ時代まで約4000年間にわたって集落が営まれた。
22投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 22時23分41秒

467 :出土地不明:2008/04/21(月) 09:34:37 ID:onaNybKY

トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した鉄片が、紀元前22世紀ごろの
鋼であることがわかった。鉄製品としては世界で最古。
「鉄の生産技術が、現在のトルコにあたるアナトリア半島で独自に生まれた
可能性が高まった」と関係者は話している。

この遺跡は中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査、01〜02年にかけて
3点の鉄片が見つかり、岩手県立博物館の赤沼英男・上席専門学芸員(文化財科学)が分析した。

鉄片は長さ約2〜6センチで、うち1点は鋼。出土した粘土板文書や炭化物の
放射性炭素年代などから、現地にメソポタミアのアッシリア商人が植民地を築いたり、
鉄の帝国として知られるヒッタイトが建国されたりするより前の、紀元前22〜
20世紀のものと考えられている。

鋼以外の2点は、鉄の原料である赤鉄鉱と、焼けてガラス化した粘土の中に
ごく小さな鉄が固着したものと判明した。焼けた粘土は、鉄生産の際に使われた
炉などの一部とみられる。

赤沼学芸員は3年前にも同遺跡で、紀元前19世紀の鋼の破片を確認している。
「前回は別の場所で作られた鋼が持ち込まれた可能性もあったが、今度は炉の
一部とみられる粘土片や原料も見つかった。鉄にかかわる生産活動が行われて
いた可能性は高い」と指摘する。
研究成果は20日、同センターで開かれるトルコ調査研究会で発表する。

同センターの大村幸弘・アナトリア考古学研究所長は、「鉄の使用開始をめぐる
具体的な形がようやく見えてきた。紀元前22世紀という年代は、アッシリア商人が
アナトリア半島に植民地を築く前で、彼らの影響は考えにくい。
アナトリア半島で独自に鉄生産が始まった可能性を考えるべきではないか」と話している。

23投稿者:777  投稿日:2009年07月22日(水) 19時18分54秒

159 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 08:50:49 0
殷の暦は10日区切り(旬)なのに、
周の暦は古代オリエントと共通する7日区切り(週)。

周は牧畜経済の色の濃い西からの移住者で、
斉を建てた太公望の出身民族は牧羊民族の羌らしい。

秦は周の中核支配層が東に移住した空き地にやはり西方から移住してきた
馬の飼育に巧みな牧畜民族。

周人やら斉人やら秦人は、ユーラシア西方から移住してきた
移動性に富んだ牧畜民族であるとしてもなんの不思議もないだろう。
そこにコーカソイド系の集団が構成要素に入っていても不自然ではない。

殷人や楚人、呉人、越人は土着の東アジアの民族だろうけどね。

だいたいこの時代に漢民族だの中国人だのはまだ形成されていないんだから。


160 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 20:34:45 0
>>159
古代から中国で唱えられていた月の二十八宿はなぜか
オリエントと共通。
さらに干支(えと)は60進法になっているが、60進法は周知のごとくバビロニアの
数法。

偶然・・・、じゃあないよな



161 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 20:59:12 0
>>160

黄河文明は内陸ユーラシア文化の色が濃いよね。

主要穀物の黍や粟の原産地はアフガニスタンから中央アジアの辺りで、
栽培化されたのもその辺り。

長江文明の米は自前の農作物だけどね。
あと豚と犬も自前かな。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1200517859/
24投稿者:777  投稿日:2009年07月22日(水) 19時30分16秒

「中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない」

13億人の中国人の92%を占めるという漢族が、実際には‘遺伝学的には現存しない血統’だという調査結果が出てきた。 「漢族は血統概念ではなく文化的な概念」という通説が学術研究で明らかになったという点で、注目されている。

中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授が「純粋な血統の漢族は現在いない」という研究結果を最近発表したと、中国メディアが15日報じた。 謝教授の研究結果は、中国西北地域の少数民族の血液サンプルDNA研究などから出された。

謝教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざったもので、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明した。 また「かなり以前から『漢族は中原に暮らしている』と考えられてきたが、これは特定時代の漢族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし、「漢族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘した。

例えばBC12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢族政権に属するが、その後の春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の‘西戎’が主流だったということだ。 また中国の歴史に表れる中原の範囲は、主に現在の山西南部と江蘇西部および安徽西北部などの少数地方を含む河南省一帯だったが、ここに居住する人々を漢族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張だ。

さらに、中国人は自らを「炎帝と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張するが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も‘北狄’地域だったことが研究の結果から分かった。 黄帝と炎帝の発源地はともに現在の甘粛省と陝西省にまたがる黄土高原地域で、ともに漢族の本拠地ではなく、居住地域でもなかったということだ。

謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した客家族が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家族こそが本当の中原人」と強調した。

謝教授は、中国に純粋な血統の漢族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、「長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢族と絶えず融合してきた結果でもある」と付け加えた。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1200517859/
25投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時23分21秒


「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。『グリム童話』でおなじみグリム兄弟は、辞書編纂や言語学者としても有名で、インド・ヨーロッパ諸語の子音を比較し、「グリムの法則」(ゲルマン第一子音推移)を発見した。比較言語学のさきがけである。

「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。


5年前から話題になり始めた「DNA分析」

アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究である。インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された、というものだ。
26投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時23分58秒

インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%

という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、中層カースト(シュードラ)、下層カースト(アンタッチャブル)に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
27投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時24分28秒

Y染色体のSTR分析
  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108

ここで使われているDNA分析は、STR(short tandem repeats)分析と呼ばれるもので、DNAの中の3〜7塩基対で構成される短鎖反復配列のパターンを調べるもの。ニットのセーターに例えていうと、連続反復される「単純編み」の部分が、セーター全体でどのようなマッピングになっているか調べるものだ。マッピングのイメージは、たとえばこんな感じ。

日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。低層カーストはアジア人にもっとも近い。

■ミトコンドリア染色体のHVR1分析
  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113

ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。ミトコンドリアDNAでは大きく変化する場所(HVR=Hyper-Variable Region)が2ヵ所あり、それぞれHVR1、HVR2と呼ばれる。
28投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時25分50秒

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。

以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、という結論になる
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332
29投稿者:鉄器時代  投稿日:2009年08月09日(日) 08時48分20秒

定義 [編集]
鉄器時代の定義としては、青銅を利用した青銅器の代わりに鉄を利用した鉄器が主要な道具として使われている事が条件となっている。

この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている。ヨーロッパ、中東、インド、中国などの地域では時代区分することが可能。日本では青銅器と鉄器が同時に伝わり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入るため、必ずしも万能な区分法とは言えない。


鉄の精製技術 [編集]
鉄を精製するには、非常に高い熱を継続して作り出す技術が必要であり、青銅器に比べて高度な温度管理技術、冶金術が必要になるため、比較的加工しやすい青銅器に比べ、高度な技術が必要になり必然と登場年代は遅れる事になる。青銅器と比べると鉄器は、大量生産がしやすく、耐久性に優れている為、武器としての利用の他に農作業の効率化をもたらした。


最初の鉄器文化ヒッタイト [編集]
最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろに突如あらわれたヒッタイトと言われている[誰?]。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、メソポタミアを征服した。その鉄の製法は秘密にされており、周辺民族に伝わる事が無かったが、ヒッタイトが紀元前1190年頃に滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。

各地の鉄器時代はこのエジプト・メソポタミア地方から拡散した製鉄技術が伝わってから始まることになる。従って、一般的に中東から離れた地域にある場所ほど鉄器時代の始まりは遅くなる。


中国の鉄器時代 [編集]
中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている[誰?]。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っており、初期の鉄器武器を使っていたと言われる呉・越と比べてもさほど破壊力に差は無かったと言われており[誰?]、中国独自の高度に発達した青銅器が鉄器の普及を妨げていたとも考えられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
30投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 12時34分04秒

秦の時代にもいたペルシャの人夫

【北京29日傍示文昭】29日付の中国各紙によると、陝西省西安郊外にある秦(紀元前221―同206年)の始皇帝陵の副葬墓から出土した約2200年前の人骨が、ペルシャ系とみられる20代の男性のものであることが分かった。古代中国と古代ギリシャ・ローマとの間に開かれた陸上交通路「シルクロード」ができる前に、中央アジア以西の民族が中国中部まで入っていた事実が明らかになったのは初めて。専門家は「従来の学説より約1世紀早く、東西交流史を塗り替える発見」と指摘している。

■2200年前のDNAを鑑定

 28日、中国・西北大の考古学者らが明らかにした。発表によると、副葬坑は2003年、等身大の兵士像などで有名な「兵馬俑(へいばよう)博物館」から約500メートル離れた場所で見つかった。陵墓建設に従事した労働者を埋葬した墓とみられ、約50人の遺骨を発掘。一部をDNA鑑定した結果、一体はペルシャ人かクルド人と同じ遺伝子を持つ男性であることが分かった。

 これまで、古代中国と中央アジア以西の民族の接触は、秦の後の漢代以降に始まったとみられていた。研究者は「西方から強制的に連れてこられて陵墓建設に従事させられていた可能性もある」と指摘している。

 陝西省考古研究所の段清波研究員は「シルクロードができる前に、すでに東西交流が行われていた可能性もあり、東西文化の交流史に大きな意義がある発見だ」と話している。
=2006/06/30付 西日本新聞朝刊=

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