人類の起源 [社会]
1投稿者:777  投稿日:2009年03月15日(日) 14時38分07秒

日本人の起源
http://www.amezor.to/shiso/071019230213.html

古代中国人は白人だった
http://www.amezor.to/shiso/080907143515.html

の続編です.
2投稿者:777  投稿日:2009年03月21日(土) 18時08分33秒

親しいからこそ性行為を求めない

−−人間にとっての性は、生殖をいちばんの目的とするのではなく、コミュニケーション自体を目的とする手段になったということですか?

山極:そういえるかもしれません。売買春が存在するのは、性が安易なコミュニケーション手段にもなりえるからです。人間の幻想の中で大きいのは、「セックスをすると仲良くなれる」というものです。霊長類の場合、性交をしても仲良くなりませんし、仲良くなるためにしているわけでもありません。

−−だとすると、動物はなんのためにセックスするのでしょうか?

山極:ただ性欲を満たすためです。セックスすること自体が目的なのです。ニホンザルもゴリラも交尾をしたからといって、その異性間に特別な絆が生まれるわけではありません。

 むしろ絆のある雄雌は、性交しないことが多い。嵐山のニホンザルの行動から発見されたのは、発情期に特定の雄と雌はペアになり、そのうち雌は交尾した雄を利用し、餌を取るようになります。非交尾期になっても、雌がその雄の後をついて歩くようになりますが、そういう仲良くなったペアは交尾しなくなります。

−−ということは、親密さや愛着が性交渉を回避させているというわけですか?

山極:そうなりますね。バーバリマカクやゴリラの雄は、自分の子でない特定の雌の子どもを世話することがあります。この二者は、実の親子でなくても交尾を避けあうのです。生まれてから子どもが育つ間に生じた何らかの親密な関係性が性交渉を防ぐ結果になっているようです。

 これは人間にも当てはまるようです。19世紀末、社会学者のエドワード・ウェスターマークが「未開」民族を研究したところ、親子を含め幼児期に親しくなった異性同士は、性交渉を避けあう関係になると報告しています。

−−同時代人のフロイトは、逆の考えを持っていましたが、その報告を知らなかったのでしょうか?

山極:フロイトはその説を黙殺しました。彼は幼児期の性衝動は、息子は母に、娘は父にといったように、近親者へ向けられ、それが禁止されることでエディプス・コンプレックスを抱くと考えました。それを乗り越えることで、正常な性愛を身に付けるという成長のプロセスを描いた。

 ところがウェスターマークの説によると、エディプス・コンプレックスを持たずとも、親子は放っておいてもセックスしない。どうやら、異性間に育まれたある種の親しさは性行為を求めないようです。

http://asyura2.com/09/nature4/msg/105.html

3投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時16分25秒

『ネイティブアメリカンの先祖は日本から来た』

アジアからアメリカへと渡った最初の人類は日本で生活していた種族だったかもしれない。ミシガン大学人類学博物館のローリング・ブレイスによると、縄文時代のアイヌ人がベーリング海峡を渡り、アラスカから南アメリカの先端まで広がったことを示す結果が、骨格調査などからわかったという。彼らは約15‚000年前にアメリカに到着、約1‚000年以内に南アメリカの先端で生活をはじめたらしい。ブラックフット族、スー族、チェロキー族を含む、アメリカインディアン種族の多くがこの種族を先祖に持っている。やがて、ベーリング海峡の氷が溶けた頃(約3000〜4000年前)に東南アジア、モンゴル系の民族がボートでやって来て、イヌイットおよびアレウト族、そしてナバホになったという(WorldScientist)
http://www.lizard-tail.com/isana/review/view.php?search_id=20010631154644

1996年に、アメリカ ワシントン州コロンビア川からで発見された遺骨が、その後の調査で、今から約9300年前の物とわかり、大騒動となったことがあります。これは後にケネウィックマンと名づけられたのですが、その特徴は研究が進むにつれ明らかになってきました。2001年7月、ミシガン大学のローリング・ブレース博士の研究グループによりケネウィックマン縄文人説を裏付ける更なる証拠が出てきたというのです。「kitombo.com」というサイトで詳しく紹介されている記事が非常に興味をそそられます。以下引用さていただきました。 

ブレース博士等は、北米の西部地域及びアジア大陸に住む現在の住民、及び古代人の1000人分以上の頭蓋骨を21箇所の解剖学的基準に基づいて比較検討した。それぞれの測定結果を、デンドログラムと呼ばれるツリー状のグラフにまとめた結果、古い時代のアメリカ先住民は、現在のアメリカ先住民や北方アジア人とはまったく似ていない事がわかったのだ。

 古代のアメリカ先住民に最も近いのは、縄文人と現在のアイヌ人、ポリネシア人という結果だった。いわゆる古モンゴロイドと呼ばれている集団である。ブレース博士等は、これらの研究結果に基づきアメリカ最初の移住者は、約1万5000年前の氷河期に日本から移住してきた縄文人であり、約5000年前に北方アジアから移住した人々が先住の縄文人と入れ替わり現在のアメリカ先住民になったと言う仮説をたてた。

中には1万2000年前より古いと考えられている物もある。そして、これら古い人骨の研究が進んだ結果、初期のアメリカ先住民は、北東モンゴロイド系とは、異なる特徴を持っていたことが明らかになった。

 まず、最も話題を集めているケネウィックマンから、話をすすめよう。この人骨は、アメリカ・ワシントン州で発見されたもので、発見当初、白人の特徴を備えていると話題になった。しかし、後の研究からは、日本のアイヌ人やポリネシア人により近い事が判明し、古モンゴロイド系であると考えられるようになった。(詳しくは黄トンボコラム内ケネウィックマン及び楽園を求めた縄文人参照)
4投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時17分58秒

このケネウィックマン以外でも、2002年にも、メキシコでアメリカ最古級になる1万3000年前の人骨が確認されているようです。他にもエクアドルのバルでリビア遺跡から出土する土器が縄文土器と酷似しているとか、明らかに古モンゴロイドが太平洋を渡ってきたと見られる証拠が次々に出てきています。

一九九五年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証から、さかのばってみよう。  第一は、「HTLV I(ローマ字)型の論証」である。一九九四年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV I(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。・・・・  第二は、「寄生虫の論証」である。一九八○年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。それによると、南米の北・中部に分布する、モンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジヤー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。・・・・・・(略)いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への、人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。・・・・・(後略)
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/11/000626.html
5投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時30分26秒

ワシントン(AP) 先史時代、アメリカ大陸に渡ってきた最初の人間が、縄文時代に日本に住み、後にアイヌ人となった先史民
族ではないかという説が浮上した。米ミシガン大学人類学博物館が中心となり、世界中から集めた古代人の頭蓋骨約1万個の
分析・比較研究結果が31日発表された。

研究の指揮を取ったC.ローリング・ブレース氏によると、コンピューターを使い、骨の構造など詳細な分析を実施した結果、米
国の先住民の骨の特徴が、縄文時代に日本に住んでいた民族のものと非常に似通っているが分かったという。また、これらの
特徴が現在も、アメリカン・インディアンのブラックフット族、スー族、チェロキー族にみられるという。

現在ベーリング海峡に隔てられているアジアと北米大陸だが、当時は、アラスカとシベリアは陸続きであったという説もある。そ
のため、ブレース氏は、縄文時代の民族が陸づたいにアラスカへ渡り、その後、北南米大陸に移住していったとみる。「米大陸
に移住してきた縄文人は、現在の日本人とは違う。アジアから日本に渡ってきた民族だろう」とする。また、これら縄文人がアジ
アの影響以外に、ヨーロッパの特徴も兼ね備えていたことも指摘した。

頭蓋骨の特徴のほか、縄文人が有していたとみられるボートを作る技術も、縄文人が米国の先住民となったことを確証づける
決め手となっているという。ブレース氏は「農耕技術が誕生する数千年前の時代、人々は狩猟に頼る生活を送っていた。新たな
獲物を探して西部に移住するために、ボートが使われていた」と指摘する。日本で発見されている先史時代の白樺の樹皮から
作られたカヌーと、アメリカ・インディアンが使っていたボートは酷似しているという。

アジアから初めてアメリカ大陸への移住は1万5000年前と、ブレース氏はみている。その後1000年以内に各地に移住し、遠
方では南米大陸まで移住していったという。

3000年から4000年前には中国人、東南アジア人、モンゴル人による、アジアからの2回目の移住が行われた。この時すでに
北部の氷が溶け出した後で、移民はベーリング海峡をボートで渡ってきたとみられる。これらの第2次移民のうち、北部に残った
ものがエスキモーやアラスカ西部に住むアレウト族となり、南方に移住したものがナバホ族になったとみられている。
6投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時33分25秒


ブレイスのアイヌ−サムライ説

1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。
鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて
学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。
つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。
いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると
合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。
また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。
絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと
考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。


7投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 00時34分02秒

何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。
つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。
関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、
ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。

関東人は長頭、朝鮮人は短頭。
とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、
鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。それは何故か解るだろ?
朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。
8投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時45分30秒
消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査

古代の北海道北部に広がった「オホーツク文化」のことは、一般にほとんど知られていない。海岸近くに住居を構え、魚や海獣を捕らえ、犬や豚を飼った人々が、こつぜんと消えた。どんな人たちだったのか。そのナゾに遺伝子から迫る初の研究が、先ごろ北海道大でまとまった。オホーツク海周辺で人間が活発に動いたことを跡付けるもので、歴史書に記録の乏しい北方世界の新しい姿が浮かび上がる。

 オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がった。次第に東部から千島列島まで展開するが、10世紀ごろ姿を消す。日本書紀に見える北方民族の「粛慎(あしはせ)」では、との見方もあるが、考古学・歴史学・民族学などの研究者が解明を試み、サハリンやシベリア、北方の島々の少数民族の名が様々にあがって、決め手はなかった。

■人骨の遺伝子分解

 北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、37体からDNAの抽出に成功。ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析し、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論を導いた。ともに人口数千人の少数民族だ。

 オホーツク人が注目されるのは、ミステリアスであるうえに、アイヌ民族形成のヒントが潜むとみられるからだ。

9投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時45分58秒

弥生文化の時期にも稲作が普及しなかった北海道では、縄文→続縄文→擦文(さつもん)と独自の文化が展開した。アイヌはその流れをくむと考えられてきたが、縄文の系統には無い文化の要素も持つ。代表例は熊を使う儀式で、同じような習俗がオホーツク文化にもあったことが確認されている。

 増田准教授らはオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認した。北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価する。

 では、オホーツク人に近いというニブフは、どんな民族なのか。札幌学院大の白石英才准教授(言語学)によると、ニブフ語は、近隣に似た構造の言語が見あたらない「孤立語」で、ニブフは系統不明の民族。帆を持つ舟を操り、漁労主体の生活だったようだが、近年はロシア化が進んで文化の独自性があいまいになっているという。

 今回の分析には、また、「弥生人の渡来など、日本列島へは移民の波が何度かあったが、オホーツク人の南下は、その最新のものだとわかる」(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授=分子人類学)という意味もある。ただ、彼らが海を渡った理由の解明は、まだこれからのようだ。

■温暖化原因で南下か

 その理由について、北海道開拓記念館学芸員の右代啓視さん(考古学)は、気候変動、なかでも温暖化のためだと考える。オホーツク文化が北海道北部に到達した古墳時代末期は、現在より海水面が1メートルも高い温暖期で、この文化が広がった平安時代の初期には、年間の平均気温が現在より2〜3度は高かったらしい。

 このころ、ユーラシア大陸の反対側では、バイキングと呼ばれた北方の人々が、温暖化を背景に人口を増やし、海へと乗り出して欧州各地を征服、緑の島だったグリーンランドにまで勢力を拡大した。日本列島の北でも、海を舞台にした同様の物語があったのかもしれない。

 最新の科学技術がもたらした分析結果は、気候変動への関心の高まりと重なって、そんな新しい歴史像を描き出そうとしている。(渡辺延志)
10投稿者:777  投稿日:2009年04月29日(水) 12時56分01秒

日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに

日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。


 理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。


 両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。
http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。
 研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。
 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。
 さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html

11投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
12投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時50分17秒

アフリカ大陸は、第三紀(新生代の地質年代の区分。約6500万年前から約164万年前までの間をさす)を通して、大陸の大半を占めていた熱帯雨林が次第に縮小し、サバンナや有棟低木林・草原・半砂漠、さらには砂漠の環境が広がっていったことは確かなことが分かってきています。砂漠の環境は、北方氷床が形成された280万年前頃以来、“氷期の乾燥期”に最大に広がるようになったと考えられ、人類が誕生した700万〜500万年前には、まだ砂漠は存在していなかったなかったようです。


「人類は草原(サバンナ)で進化した」「森林を出た類人猿が広大な草原(サバンナ)立ち上がったとき、直立二足歩行する人類が誕生した」と覚えた人は多いと思いますが、新たに見つかった化石などからこうしたこれまでの常識とは異なる、初期人類の置かれた環境が明らかになってきています。

■アフリカ大陸の環境変遷

アフリカ大陸が南半球にあった巨大大陸・ゴンドワナ大陸から分かれて北上し始めた白亜紀後期以来、全球的なプレートの運動に関連して、アフリカ気候の冷涼化と乾燥化を促すようないくつかのイベントが起きました。

一方、アフリカ大陸の内部では、その東半部で、4000万年前頃から真下からの巨大なプリューム(高温で浮力を持った巨大な岩石の塊)の上昇による一大隆起帯の形成が始ました。大地溝帯の誕生をもたらしたこの巨大隆起帯ができたことにより、西からの湿潤な気流の流入が妨げられるようになったので、東部アフリカは次第に乾燥化し、森林からサバンナの環境へと変わっていったとされています。

800万年前頃に起きたこのイベントは、コンゴ盆地の森に住んでいた人類の祖先がサルから分かれて東部アフリカ大地溝帯のサバンナに出て進化するきっかけを与えた、として捉え、人類起源に関する「イーストサイド物語」と称する説(コパン、1994)が唱えられています。しかし、この説に対しては、隆起帯のサルと人とを隔てる分断効果、人類ははたしてサバンナのような開けた環境に適応したのか、東側で森林が消滅するほどの障壁効果があったのか、などの点から見直しが必要とされています。

また、最近チャド北部の砂漠で700−600万年前のものとされる初期人類:サヘラントロプス・チャデンシス (Sahelanthropus tchadensis)の頭蓋骨が発見され(2002)、それが人類の祖先のものかどうかをめぐる論争はあるものの、現在では人類の祖先が大地溝帯に限らない広い地域に分布していたと考えられれています。

では、初期人類が住んでいた場所はどんなところだったのでしょうか?

13投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時51分49秒

■中新世後期〜鮮新世後期(1500〜200万年前)アフリカ大陸の植生

まず、『初期人類の置かれた自然外圧(1)』でも紹介した、「現在のアフリカ大陸の植生図」です。

  A.現在のアフリカ大陸の植生図(クリックで拡大!)

次に、人類が誕生した700〜500万年前のアフリカ大陸の植生地図です。
  B.1500〜200万年前のアフリカ大陸の植生図(クリックで拡大!)
   (野一晴編「アフリカの自然学」古今書院:アフリカ大陸の白亜紀後期以降の植生変遷より作成)


【硬葉樹林】
夏季に雨が少なく乾燥し、冬季には多湿だが温和となる温帯に発達する常緑広葉樹林。おもに地中海性気候の地方にみられ、地中海沿岸ではオリーブやコルクガシなどがあります。「現在のアフリカ大陸の植生図」の地中海植生に該当するようです。

【有棘潅木】
潅木とは低木のことで、有棘潅木とは棘の有る低木のことのようです。この地域は、トゲサバンナとも呼ばれ、有棘潅木が生えているサバンナと考えてよいようです。

1500〜200万年前は、まだ乾燥化が進んでいなかったので砂漠は存在していません。また、熱帯雨林が現在よりも大きく広がっていることが特徴です。気候によって熱帯雨林は拡大・縮小を繰り返していたようです。

初期人類の主な遺跡がある場所の植生を見ると、
・中央アフリカの熱帯雨林とその周辺部に半同心円状に広がるサバンナ・ウッドランドの周辺部
・北東のエチオピア高原と南アフリカ東部のドラケンバーグ山脈の山地植生地帯
などが該当します。

初期人類化石が見つかった地層からは、森林のサルであるコロブスや、木の葉を食べるウシ科の動物などが見つかっていること、また、アフリカで乾燥化が進むのは、250万〜300万年前以降であることから、初期人類が生きた環境は、森林の周辺の草原・湖が混在するような環境だったと考えられています。

「草原・湖が混在する環境」というと、何か穏やかな環境のように思われるかもしれませんが、森林で進化した霊長類にとってはそうではありません。その環境は、霊長類が進化した、豊かな食料が手に入り、外敵から逃れるために枝から枝へ自在に移動できる森林とは大きく異なります。森林の周囲であっても樹上でないならば、それは飢餓の危険もあれば、いつ外敵に襲われるかも知れないような過酷な環境に他なりません。



14投稿者:初期人類が誕生した時代(700万〜500万年前)の自然環境  投稿日:2009年05月24日(日) 00時53分06秒

■現在のアフリカ大陸の高度分布と初期人類の遺跡位置

次は初期人類の遺跡のある場所の高度を見てみます。
  現在のアフリカ大陸の高度分布図 (クリックで拡大!)

○(白色の丸):初期人類(猿人:アウストラロピテクス属とパラントロプス属)の主な遺跡

中央アフリカの遺跡を除き、大地溝帯を含む高度の高い場所に遺跡が位置していることが分かります。

大地溝帯付近のケニアやタンザニアは、日本のような四季はありませんが、4〜5月は雨季、6〜10月は乾季となります。季節は日本と逆になり、6〜9月は特に朝晩冷え込みます。朝と夕刻のサファリの際はセーターや厚手の暖かい上着が必要と言われます。ケニアの高地(リフト・バレーと中央山岳地帯)は、ケニアの名でも一番過ごしやすい気候ですが、高地であるため日中の最高気温は22〜26℃とあまり高くなく、朝は10〜14℃とかなり冷え込むようです。

アフリカ=暑い、とイメージしがちですが、アフリカの環境は多様ですね。気温が10℃にまで下るとすれば、朝晩の寒さや風から身を守ることが出来る住処(洞窟、岩陰など)を確保することは、初期人類にとって重要な課題の一つだったのだと思われます。現在より気温が低かったから氷河期には、さらに過酷な状況になったのかも知れません。


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初期人類が誕生した時代の自然環境と初期人類遺跡の位置を関連付け、当時の自然環境に迫ってみました。いかがだったでしょうか?

現状では遺跡から発掘される化石証拠が十分でないことから、明確に初期人類が生きた環境を再現することは出来ませんが、霊長類が進化した熱帯雨林とはまったく異なる自然環境に生きていたことは確かなようです。

朝晩は冷さや風に身を震わせ、恒常的な飢えにさいなまれ、いつ外敵に襲われるか恐怖する・・・初期人類が置かれた状況は、そんな過酷なものだったのではないでしょうか。だとすれば、初期人類は、否応なしに洞窟・岩陰・地面の穴などに隠れ住むしかなかったのでしょう。

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(るいネット 『実現論』より引用)
『実現論』にあるように、初期人類は、過酷な自然外圧・外敵外圧という逆境下で、残された共認機能を唯一の武器として、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させていくことになります。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000484.html
15投稿者:777  投稿日:2009年05月24日(日) 14時30分10秒

最新の研究によると、400万前の絶滅したヒト属の足首は、既に木登りには適していない形に進化していたということです。

>数百万年前に生息していた人類の祖先は、いままで多くの専門家たちが考えてきたほど「サルっぽく」はなく、木登りも下手であったことが新たな研究により示唆されています。初期の人類は樹上生活をしていたのか、樹上生活を捨て二足歩行をするようになったのかは長く議論の的だったのですが、400万年以上前のヒト族の化石の足首の関節を調査することにより明らかになったそうです。

>現代人ホモ・サピエンスや北京原人・ネアンデルタール人などを含むヒト属(Homo)と、同じヒト亜科(Homininae)ヒト族(Hominini)に属するチンパンジー属(Pan)は約400〜800万年前に共通の祖先から分化したと考えられているのですが、今回研究対象となった化石は分化したのち絶滅したヒト属のものです。

>ミシガン大学の人類学者Jeremy DeSilva博士は、まずウガンダのキバリ国立公園の野生のチンパンジーが樹上で活動する様子を撮影し、ビデオを分析したところ、木に登るときチンパンジーの足首は通常の位置から45度内側へ(アキレス腱を伸ばす方向へ)曲がることがわかりました。それに対し現代人は歩行の際足首を最大15度から20度動かし、それ以上曲げると深刻なケガにつながります。

>DeSilva博士はその後、412万年前から153万年前の類人猿とヒト属の化石の脛骨(けいこつ)と距骨(きょこつ)を比較しました。その結果、ヒト属絶滅種の足首の関節は類人猿よりはるかに現代人に近いことが明らかになりました。つまり人類の進化のごく初期に足首の関節は現在の構造になったということで、二足歩行を始めるとほぼ同時に人類は木登りが下手になり、地上生活を始めるようになったことが示唆されています。

http://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=207307
16投稿者:777  投稿日:2009年06月12日(金) 23時45分33秒

世界最古1万8000年前の土器発見…中国・湖南省

中国湖南省の洞窟(どうくつ)で世界最古となる約1万8000年前の土器が発見された。
当時は、最後の氷期がピークに達していた寒冷な時期。
土器製作は氷期のピーク後、徐々に暖かくなる中で生活の場を広げた人類が始めたとする従来の見方を覆す発見だ。
米ボストン大学や北京大学などの国際研究チームが米科学アカデミー紀要の最新号に発表した。

これまでに青森県やロシアなどで1万数千年前とされる土器が発見されているが、
古い土器の年代分析は難しく、年代値の信頼性などで議論があった。

今回は40以上の試料をもとに正確な分析を行い、日本やロシアの土器よりも
少なくとも1500年以上古いことが分かった。土器製作の南中国起源を裏付けるという。

研究チームは2005年までの発掘で、土器2個以上に相当する多数の破片を発見。
復元された土器の一つは、高さ約30センチの円すい型と推定されている。
年代は、土器片に付着した有機物や地層中の炭、動物骨を材料に、放射性炭素の含有量を調べて決定した。

(2009年6月3日23時29分 読売新聞)
17投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 20時50分48秒

インド・ヨーロッパ語族、9千年前のトルコが起源?
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 中央アジア、インドから欧州ほぼ全域にまたがる大言語グループ「インド・ヨーロッパ語族」の起源が、
約9千年前のトルコの農耕民族の言語にさかのぼることが、共通単語の多さにもとづく言語間の近縁関係の
分析により有力になった。DNA配列の類似度から、生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統
分析を応用した成果。27日付の英科学誌ネイチャーで発表される。言語研究の手法に一石を投じそうだ。

 取り組んだのは、ニュージーランド・オークランド大のラッセル・グレー博士ら。6千年前のロシアの
遊牧民の言語が起源とする定説を覆した。

 印欧語族の87言語を対象に、基本的な2449個の単語について、互いの間に共通語源を持つものが
どの程度あるかを調べ、言語間の近縁関係を数値化した。

 これをコンピューターで統計処理し、「言語の系統樹」を作成。時間軸は、考古学などから得られた
年代も参考にしてはじき出した。

 この系統樹によると、まず約8700年前、トルコ付近にいた農耕民族「ヒッタイト」の言語が登場した。
その後、7千年前までに、ギリシャ語を含むグループやアルメニア語を含むグループが分かれ、
5千年前までに、英・独語、仏語などにつながる数グループができた。

    ◇

 <言語の進化に詳しい新潟大の大西耕二・助教授(進化生物学)の話> 生物学の最新の系統分析の
]理論を言語学に応用することは、10年ほど前に発案されたが、本格的に適用されたのは初めて。
今後の比較言語学の研究の方向に影響を与える成果だ。
18投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 20時54分05秒

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話しアナトリア半島に王国を築いた民族。ハッティの英語名で、旧約聖書の Hitti(ヘテ人、ヘト人)をもとにして、イギリスのA.H.セイスが命名した。

また、この民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。首都はハットゥシャ(ボアズキョイ遺跡)。

ヒッタイト人は黒海を渡って来た北方系民族といわれてきた。しかし、近年、逆にインド・ヨーロッパ語族が、この地域アナトリアを故郷として広がって行ったという説も提唱されている。紀元前1680年頃にクズルウルマック("赤い河"の意)周辺に王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。エジプトの遺跡には、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。

青銅器時代、最初に鉄を使い始めたことで知られている。当時、鉄は隕石からごくまれにしか採れなかったが、トルコのカマン・カレホユック遺跡にて鉄滓が発見されている。近年、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。鉄の製法はヒッタイトが滅びるまでは秘密にされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。通説では紀元前1190年に、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされたとされている。

なお、ヒッタイト王の称号は、タバルナであるが、これは古王国の初代王であるタバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている.


歴史 [編集]
紀元前2000年頃、ヒッタイト人、アナトリアに侵入。
紀元前1680年頃、ヒッタイト古王国の成立。
紀元前1595年頃、メソポタミアの古バビロニアを滅ぼす。
紀元前1450年頃、ヒッタイト新王国の成立。フリ文化の色彩強まる。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマはミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達であった。
紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。
紀元前1190年頃に滅びる。地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたといわれているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった。
王国が滅びたあと、東南アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、新ヒッタイトと呼ばれる都市国家群として活動した。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フリ人と同化していたと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88
19投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時09分39秒

【人類最古の火の使用跡=79万年前、イスラエルの遺跡−炉や食物の燃えかす発見】

 イスラエルの死海近くにある約79万年前の遺跡から、石を集めた炉の跡や食用のオリ
ーブ、野生の大麦、野ブドウなどの燃えかすを発見したと、同国のヘブライ大学などの調
査隊が30日付の米科学誌サイエンスに発表した。雷などによる野火を利用するのではな
く、人為的に火をおこしていたとみられ、人類が火を管理して使いこなしていた最古の確
実な証拠だという。これまでは中国の北京郊外、周口店の洞窟(どうくつ)で、30万〜
50万年前に北京原人が火を使ったとされる跡が最古と考えられており、これを大幅にさ
かのぼる画期的な発見となった。(時事通信)
20投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時13分38秒

先史沖縄人、縄文人とはやや異なる

 沖縄諸島で琉球王朝が成立する以前の貝塚時代のヒトは、祖先であるはずの縄文人や現代沖縄人とは異なるらしいことが分かった。3月に開かれた県立埋蔵文化財センターの研究発表会で、沖縄貝塚人に対する従来観に疑問を差し挟む報告が相次いだ。09年4月3日付読売新聞朝刊の文化欄で報じられた。
 沖縄では本土の縄文時代に縄文文化が広がっていたことが九州の縄文土器の存在などから明らかになっているが、九州に水田稲作の弥生文化が広がっても稲作を受け入れず、狩猟採集の貝塚文化が続いた。その後、歴史時代に入るが、現代の沖縄人の形態的特徴から、途中の貝塚人は縄文人の直系子孫だと考えられていた。
 形質人類学の土井直美・琉球大学准教授によると、本土縄文人よりも貝塚人の頭長は長く、しかも著しい低顔だと発表、縄文人の地域性だけでは説明できないほどの違いと指摘した。
 米田穣・東大大学院准教授は、食性を推定する人骨コラーゲンの炭素と窒素の同位体分析から、貝塚人は魚介類中心の食性で、ドングリなどの植物食が主体だった本土縄文人と異なることに注目、稲作を受け入れなかったのはこうした食性の違いもあったのではないか、と提起した。
 分子人類学の篠田謙一・国立科学博物館研究主幹は県内3遺跡の貝塚人20体の人骨のミトコンドリアDNAの分析から、大当原貝塚(読谷村)の人骨には台湾先住民につながる型を確認、実は貝塚人は遺伝的に均質ではなかったのではないかと指摘した。
 貝塚人の埋葬習俗でもバラエティーに富み、精神文化の多様性がうかがえるともいう。台湾により近い先島では、沖縄諸島と異なる東南アジア系文化が広がっていたことが分かっているので、貝塚文化には先島の影響も考慮しなければならないという指摘もなされた。
 港川人から縄文人、そして貝塚人をへて、現代沖縄人にいたったという単純な見方は、再考を余儀なさされそうだ。

(2009年04月11日 土曜日)

21投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 21時50分30秒

224 :出土地不明:2005/05/11(水) 11:37:21 ID:HQ7aRIaN
トルコの遺跡から世界最古の鋼、製鉄の起源見直しへ

 トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した紀元前18世紀(アッシリア植民地時代)の鉄片が鋼(はがね)
だったことが、岩手県立博物館の赤沼英男・上席専門学芸員(文化財科学)の分析で判明した。
 これまで世界最古とされてきた紀元前14〜12世紀(ヒッタイト帝国時代)の鋼を約500年さかのぼる発見。
 従来、世界で初めて高度な製鉄技術を確立したのはヒッタイト帝国だと考えられてきたが、アッシリア期の
鋼が確認されたことで、製鉄の起源は根本的な見直しを迫られることになりそうだ。
 同遺跡は中近東文化センター(東京都三鷹市)が1986年から発掘調査を続けている。分析された鉄片は
2点で、幅はいずれも約1センチ、長さは約1〜2センチ。紀元前18世紀の建物跡から94年に出土した。
これらの資料の組織を約1000倍に拡大して観察したところ、強じんな鉄である鋼と確認された。また、蛍光
エックス線分析によって明らかになった炭素の含有量(0・1〜0・3%)からも、鋼であることが裏付けられた。
鋼は、鉄鉱石から不純物を取り除いただけの普通の鉄よりも高度な技術が必要とされ、これまで確認されて
いた最古の鋼は、同遺跡で出土した紀元前14〜12世紀のものだった。
 ヒッタイト帝国の首都ボアズキョイで、鋼のことを示すとみられる「良質の鉄」と記した粘土板文書が発見
されている。この資料からも、ヒッタイトが鋼を作る技術を開発、独占していたとの考えが一般的だった。
今回の発見について、中近東文化センターアナトリア考古学研究所の大村幸弘所長は「メソポタミアから
やってきたアッシリア商人が、優れた冶金(やきん)技術をヒッタイトに伝えた可能性が出てきた。ヒッタイトと
鉄との関係を根本から考え直す必要がある」と話している。
 ◆カマン・カレホユック遺跡=トルコの首都アンカラの南東約100キロに位置する、基底部の長径約280
メートル、高さ約16メートルの楕円(だえん)形の遺丘。紀元前約2300年から、アッシリア植民地時代、
ヒッタイト帝国時代などを経て、オスマン・トルコ時代まで約4000年間にわたって集落が営まれた。
22投稿者:777  投稿日:2009年07月20日(月) 22時23分41秒

467 :出土地不明:2008/04/21(月) 09:34:37 ID:onaNybKY

トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した鉄片が、紀元前22世紀ごろの
鋼であることがわかった。鉄製品としては世界で最古。
「鉄の生産技術が、現在のトルコにあたるアナトリア半島で独自に生まれた
可能性が高まった」と関係者は話している。

この遺跡は中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査、01〜02年にかけて
3点の鉄片が見つかり、岩手県立博物館の赤沼英男・上席専門学芸員(文化財科学)が分析した。

鉄片は長さ約2〜6センチで、うち1点は鋼。出土した粘土板文書や炭化物の
放射性炭素年代などから、現地にメソポタミアのアッシリア商人が植民地を築いたり、
鉄の帝国として知られるヒッタイトが建国されたりするより前の、紀元前22〜
20世紀のものと考えられている。

鋼以外の2点は、鉄の原料である赤鉄鉱と、焼けてガラス化した粘土の中に
ごく小さな鉄が固着したものと判明した。焼けた粘土は、鉄生産の際に使われた
炉などの一部とみられる。

赤沼学芸員は3年前にも同遺跡で、紀元前19世紀の鋼の破片を確認している。
「前回は別の場所で作られた鋼が持ち込まれた可能性もあったが、今度は炉の
一部とみられる粘土片や原料も見つかった。鉄にかかわる生産活動が行われて
いた可能性は高い」と指摘する。
研究成果は20日、同センターで開かれるトルコ調査研究会で発表する。

同センターの大村幸弘・アナトリア考古学研究所長は、「鉄の使用開始をめぐる
具体的な形がようやく見えてきた。紀元前22世紀という年代は、アッシリア商人が
アナトリア半島に植民地を築く前で、彼らの影響は考えにくい。
アナトリア半島で独自に鉄生産が始まった可能性を考えるべきではないか」と話している。

23投稿者:777  投稿日:2009年07月22日(水) 19時18分54秒

159 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 08:50:49 0
殷の暦は10日区切り(旬)なのに、
周の暦は古代オリエントと共通する7日区切り(週)。

周は牧畜経済の色の濃い西からの移住者で、
斉を建てた太公望の出身民族は牧羊民族の羌らしい。

秦は周の中核支配層が東に移住した空き地にやはり西方から移住してきた
馬の飼育に巧みな牧畜民族。

周人やら斉人やら秦人は、ユーラシア西方から移住してきた
移動性に富んだ牧畜民族であるとしてもなんの不思議もないだろう。
そこにコーカソイド系の集団が構成要素に入っていても不自然ではない。

殷人や楚人、呉人、越人は土着の東アジアの民族だろうけどね。

だいたいこの時代に漢民族だの中国人だのはまだ形成されていないんだから。


160 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 20:34:45 0
>>159
古代から中国で唱えられていた月の二十八宿はなぜか
オリエントと共通。
さらに干支(えと)は60進法になっているが、60進法は周知のごとくバビロニアの
数法。

偶然・・・、じゃあないよな



161 :世界@名無史さん:2008/07/31(木) 20:59:12 0
>>160

黄河文明は内陸ユーラシア文化の色が濃いよね。

主要穀物の黍や粟の原産地はアフガニスタンから中央アジアの辺りで、
栽培化されたのもその辺り。

長江文明の米は自前の農作物だけどね。
あと豚と犬も自前かな。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1200517859/
24投稿者:777  投稿日:2009年07月22日(水) 19時30分16秒

「中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない」

13億人の中国人の92%を占めるという漢族が、実際には‘遺伝学的には現存しない血統’だという調査結果が出てきた。 「漢族は血統概念ではなく文化的な概念」という通説が学術研究で明らかになったという点で、注目されている。

中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授が「純粋な血統の漢族は現在いない」という研究結果を最近発表したと、中国メディアが15日報じた。 謝教授の研究結果は、中国西北地域の少数民族の血液サンプルDNA研究などから出された。

謝教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざったもので、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明した。 また「かなり以前から『漢族は中原に暮らしている』と考えられてきたが、これは特定時代の漢族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし、「漢族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘した。

例えばBC12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢族政権に属するが、その後の春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の‘西戎’が主流だったということだ。 また中国の歴史に表れる中原の範囲は、主に現在の山西南部と江蘇西部および安徽西北部などの少数地方を含む河南省一帯だったが、ここに居住する人々を漢族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張だ。

さらに、中国人は自らを「炎帝と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張するが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も‘北狄’地域だったことが研究の結果から分かった。 黄帝と炎帝の発源地はともに現在の甘粛省と陝西省にまたがる黄土高原地域で、ともに漢族の本拠地ではなく、居住地域でもなかったということだ。

謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した客家族が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家族こそが本当の中原人」と強調した。

謝教授は、中国に純粋な血統の漢族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、「長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢族と絶えず融合してきた結果でもある」と付け加えた。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1200517859/
25投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時23分21秒


「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。『グリム童話』でおなじみグリム兄弟は、辞書編纂や言語学者としても有名で、インド・ヨーロッパ諸語の子音を比較し、「グリムの法則」(ゲルマン第一子音推移)を発見した。比較言語学のさきがけである。

「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。


5年前から話題になり始めた「DNA分析」

アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究である。インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された、というものだ。
26投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時23分58秒

インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%

という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、中層カースト(シュードラ)、下層カースト(アンタッチャブル)に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
27投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時24分28秒

Y染色体のSTR分析
  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108

ここで使われているDNA分析は、STR(short tandem repeats)分析と呼ばれるもので、DNAの中の3〜7塩基対で構成される短鎖反復配列のパターンを調べるもの。ニットのセーターに例えていうと、連続反復される「単純編み」の部分が、セーター全体でどのようなマッピングになっているか調べるものだ。マッピングのイメージは、たとえばこんな感じ。

日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。低層カーストはアジア人にもっとも近い。

■ミトコンドリア染色体のHVR1分析
  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113

ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。ミトコンドリアDNAでは大きく変化する場所(HVR=Hyper-Variable Region)が2ヵ所あり、それぞれHVR1、HVR2と呼ばれる。
28投稿者:777  投稿日:2009年07月25日(土) 20時25分50秒

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。

以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、という結論になる
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332
29投稿者:鉄器時代  投稿日:2009年08月09日(日) 08時48分20秒

定義 [編集]
鉄器時代の定義としては、青銅を利用した青銅器の代わりに鉄を利用した鉄器が主要な道具として使われている事が条件となっている。

この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている。ヨーロッパ、中東、インド、中国などの地域では時代区分することが可能。日本では青銅器と鉄器が同時に伝わり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入るため、必ずしも万能な区分法とは言えない。


鉄の精製技術 [編集]
鉄を精製するには、非常に高い熱を継続して作り出す技術が必要であり、青銅器に比べて高度な温度管理技術、冶金術が必要になるため、比較的加工しやすい青銅器に比べ、高度な技術が必要になり必然と登場年代は遅れる事になる。青銅器と比べると鉄器は、大量生産がしやすく、耐久性に優れている為、武器としての利用の他に農作業の効率化をもたらした。


最初の鉄器文化ヒッタイト [編集]
最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろに突如あらわれたヒッタイトと言われている[誰?]。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、メソポタミアを征服した。その鉄の製法は秘密にされており、周辺民族に伝わる事が無かったが、ヒッタイトが紀元前1190年頃に滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。

各地の鉄器時代はこのエジプト・メソポタミア地方から拡散した製鉄技術が伝わってから始まることになる。従って、一般的に中東から離れた地域にある場所ほど鉄器時代の始まりは遅くなる。


中国の鉄器時代 [編集]
中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている[誰?]。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っており、初期の鉄器武器を使っていたと言われる呉・越と比べてもさほど破壊力に差は無かったと言われており[誰?]、中国独自の高度に発達した青銅器が鉄器の普及を妨げていたとも考えられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
30投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 12時34分04秒

秦の時代にもいたペルシャの人夫

【北京29日傍示文昭】29日付の中国各紙によると、陝西省西安郊外にある秦(紀元前221―同206年)の始皇帝陵の副葬墓から出土した約2200年前の人骨が、ペルシャ系とみられる20代の男性のものであることが分かった。古代中国と古代ギリシャ・ローマとの間に開かれた陸上交通路「シルクロード」ができる前に、中央アジア以西の民族が中国中部まで入っていた事実が明らかになったのは初めて。専門家は「従来の学説より約1世紀早く、東西交流史を塗り替える発見」と指摘している。

■2200年前のDNAを鑑定

 28日、中国・西北大の考古学者らが明らかにした。発表によると、副葬坑は2003年、等身大の兵士像などで有名な「兵馬俑(へいばよう)博物館」から約500メートル離れた場所で見つかった。陵墓建設に従事した労働者を埋葬した墓とみられ、約50人の遺骨を発掘。一部をDNA鑑定した結果、一体はペルシャ人かクルド人と同じ遺伝子を持つ男性であることが分かった。

 これまで、古代中国と中央アジア以西の民族の接触は、秦の後の漢代以降に始まったとみられていた。研究者は「西方から強制的に連れてこられて陵墓建設に従事させられていた可能性もある」と指摘している。

 陝西省考古研究所の段清波研究員は「シルクロードができる前に、すでに東西交流が行われていた可能性もあり、東西文化の交流史に大きな意義がある発見だ」と話している。
=2006/06/30付 西日本新聞朝刊=

31投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 20時48分29秒

78 :名無しさん@お腹いっぱい[]:04/09/16 19:51:23 ID:UHhOaVTt

印欧語族の起源は、中央アジアだと思われます。紀元前数千年前に
現在のイラク地方から農耕が伝わりました。この農耕から牧畜が発生しました。
中央アジアは馬の原産地でもあります。騎馬の技術を発明したのも
印欧語族が最初です。本来の印欧語族は、現在のイラン人のような容貌をしていた
と考えられます。髪の毛も目の色も黒かったと思われます。
そして、人口の増加と騎馬により、印欧語族は東、西、南へと
拡散することになります。紀元前2千前のことだと思われます。
東に向かった印欧語族はタリム盆地あたりまで進みますが、そのころ黄河文明を
起こしつつあったモンゴロイドの漢民族がいたため、それ以上、
進むことは出来ませんでした。南に向かった印欧語族はアフガニスタンから
パキスタンに入り(紀元前1700年ごろ)、インダス文明を興していた
ドラビダ系民族を滅ぼしました。
西に向かった印欧語族は、無人の野を行くが如く、欧州を駆け抜けて
行きました。北ヨーロッパにいた、ブロンデイズムを獲得していたコーカソイドを
征服し、彼らと混血していったのです。
32投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 21時29分38秒

75 :名無しさん@お腹いっぱい[]:04/09/16 19:13:32 ID:buXckZCC
>>44
>ヨーロッパで唯一純粋なアジア系人種の国はロシア連邦南部にあるカルムィク共和国。
>とありますが、ロシア人や現地の人々と混血する前のタタールスタン人やガガウズ人、
>ブルガール人などのテュルク系民族はコーカソイドとモンゴロイドのどちらだったの
>でしょうか?

テュルク系民族は、本来モンゴロイドです。モンゴル人と起源を同じくする
アルタイ系民族でした。6世紀から8世紀にかけて、テユルク語を話すモンゴロイドが
印欧語を話すコーカソイドを征服していきました。中央アジアに住むテユルク人たちは
人種的にはコーカソイドとモンゴロイドの混血です。現在のウズベク人がそうです。
その後、中世になって、モンゴルの支配下にはいりました。このモンゴル人たちも
徐々にテユルク語を使うようになりました。キルギス人、カザフ人などは、
このときの、トルコ化したモンゴル人の末裔だと考えられます。


82 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:04/10/01 22:14:49 ID:cN0KVvfg
>>75

トルコ系、モンゴル系などの中央ユーラシア遊牧民族は、
もともとが、モンゴロイドなのか、そうでないのかわからない。
そもそも草原の道とかいう中央アジアなどは、インド・ヨーロッパ語族
のベースとなった、アナトリア(今のトルコのあるところ)とも関係が
深い。でもって、アナトリアよりもちょっと上、黒海、カスピ海と
なると、カフカスであり、これぞコーカソイドとよばれていたりする
わけだが、結局、いま、人種という概念がなくなったのは、こういう
アジア系とヨーロッパ系などと分けることが無意味になったからだ。
どうやら、紀元前1000年ごろに、地中海民族(イタリアとか)
が大挙して、アジアにやってきたらしいのもわかっている。
紀元前500年ごろまでには、中国各地にこういう人々がいた可能性
がある。いまのところ、彼らの存在が確認されているのは、中国の
西域(例のローランの少女ミイラ)や、山東半島だ。
山東半島は、完全にヨーロッパ系ばかりが紀元前500年ごろには、
住んでいたことが判明している。
そのほか、考古学的にわかるのは、遊牧民族の文化が違いにあまり
区別できないということだ。カフカス系のスキタイの文化は、あき
らかに、中国まできているどころか、朝鮮半島南部まで来ている。
いわゆる日本の起源を騎馬民族に求めるのはこのあたりが理由だが、
もちろん、日本にきた証拠はないものの、朝鮮半島南部、いわゆる
任那ともよばれた加羅や新羅までは来ている。
とすれば、これらは、ステップ民族であり、この系統がアジア系と
か、ヨーロッパ系(いわゆるコーカソイド)とか区別できるもので
はない。ようするに、2000年前の民族がどういう系統かとか
論じるのがそもそも無意味に近い。
33投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 22時06分50秒

10 名前: 2 投稿日: 01/11/18 18:19 ID:xQYdMFks

ナチスが印欧祖語民族=インダス文明民族=北方人種=ドイツ人
という俗説を造って広めたわけですね。
最も、かなり北方人種に近い人がインドにまで到達したのは事実らしく、
今もカシミールに痕跡が残っています。



11 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 01/11/18 20:40 ID:6ghvRRtm

>10
パミール高原一帯で(特にアフガン、パキスタン北西部)
時折金髪や目の色の薄い人を見かけるので前から気になって
いたのですが、そういう起源もありえるんですね。

そういえば、言語的にもダルド語群、ヌーリスターン語派など
(表記、あってますか?)印欧語族のなかでも独自の系統が
(しかも今なお祖語を彷彿とさせる語形を保持しているというから)
残っていて興味深い地域ですね。



12 名前: 10 投稿日: 01/11/18 21:18 ID:xQYdMFks

>>11
恐らくこの地に進出した印欧人の一部が原住民と混血せずにエアポケットのように残ったわけですね。
勿論、この地域に進出した印欧人はインドイラン語系以外に、例えばアレキサンダー大王のマケドニアなんかもいましたね。
あの、「神田春」なんかもそうした地名です。
ちなみにアレクサンドリアの一般的なイスラム名は、宇宙戦艦ヤマトの、あの女王の星の名でおなじみです。
「イスカンダル」
もちろん、「神田春」もその転訛形です。なんか皮肉めいてますね。
34投稿者:777  投稿日:2009年08月09日(日) 22時09分47秒

28 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 02/01/28 14:03 ID:7fG/KOy6

トルコ系はまさにモンゴロイドである。今のトルコ人の濃い容貌は
混血の結果。中国の肖像画でも突厥の首長の顔はモンゴル顔だ。
レーニンがカルムイク人の血が混ざっているのは有名だ。そのため、
共産党といえども人種差別があったようだ。



29 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 02/01/28 14:10 ID:ATChDTqj

>>28
トルコ人は遊牧民族の支配者がモンゴロイド系で、被支配者が
コーカソイドだった。時代が下って混血していった。モンゴロイドは
数的に非常に少なかったので、モンゴロイドの形質は消えてしまった。
だからトルコ系はモンゴロイドとは言えない。
35投稿者:777  投稿日:2009年08月14日(金) 02時31分44秒

49 :23,40:02/09/10 18:31 ID:pYEZOI1R

インドや東南アジアにはもともとアボリジニーに似た人たちが住んでいたと思いますね。
ただ、交渉はあまりなかったので近い親戚というわけではなかったでしょうが、寒冷適応してなかったという点で似てたんじゃないでしょうか。
推測ですけどね。
「ドラビダ人」ですが、ドラビダ語自体はイラン方面起源。今のドラビダ人はコーカソイドとインド原住民の混血でしょう。
36投稿者:777  投稿日:2009年08月30日(日) 13時35分16秒

275 :出土地不明:05/01/29 14:06:28 ID:RPGOQ9tP
史記では殷は衰退して周に滅ぼされたとされているが、しかし実際に殷の遺跡を幾ら調べてもその時期に殷が衰退した根拠は見出せない
むしろ繁栄を裏付ける根拠ばかりが見つかるそうだ。
そのことから殷の衰退は兵力の中核だった異民族の兵士達が周に呼応して反乱を起こしたからだとも言われている。
兵士達にしてみればどんな手柄を立てても奴隷のままだし。
それどころか何かあれば生贄にされて首を刎ねられる。そんなのはたまったものではないから反乱したのだろうってことだけどさ。。

本当のとこはどうだろうね?
史記が正しいのか研究からの推測が正しいのかだ。
私は司馬遷が基本的に好きなんだけどね。彼のおかげで日本では神話でしか伝えられない時代のことがかなり正確に伝わっているのだからな
そんな偉人を疑いたくはないのだけど


276 :出土地不明:05/01/29 14:43:00 ID:d2c/RkFP
>>275
殷(商)の王の系図の類は、史記と、甲骨文字の解読によるものが、
一カ所をのぞいて、同じだったとされているので、たぶん、しっかり
はっきり残っていたのだろうと思う。ただし、文化人類学などの研究
でも、系図は口承でもかなり残るとされている。世代の数などはまち
がえにくい。それぞれが、自分の先祖をしっかり暗唱している場合が
ほとんどだ。20世代くらいなら、かなり記憶できるらしい。
ただ、エピソードは残りにくい。
殷(商)における文字使用は、かなり限定的で、占いとか、そういうの
が主体。あるいは、青銅器に書き込むとかが中心っていうのが一応の
考古学的な成果で、まだまだ、木簡や竹簡の類がみつかっているわけ
ではないので、そこから考えると、普段の行政文書などがどれだけ
あったのかっていうのが疑問。記録も限定的だったとすれば、1500
年くらいの時間で、物語はいろいろ付加されていって、伝説のように
なり、当初の殷周革命のありようとは違うものになっていたと思う。
つまり、史記は、伝承をかきあつめたものではあっても、けっして、
記録をベースにしたものではないと思うのだ。


277 :出土地不明:05/01/29 15:48:54 ID:QChyFyXT
殷周革命のエピソードは殷側じゃなくて周側に残った
文書がネタ元でしょう。後に尚書にまとめられたような。
殷時代のエピソードは宋にけっこうあって、後に散佚したん
じゃないかな。


37投稿者:777  投稿日:2009年08月30日(日) 13時40分16秒

341 :出土地不明:2006/09/23(土) 04:40:28 ID:CBTr8iKN

【中国】中国北部、4千年前の“小麦”伝来がきっかけで農業が発展 中華文明の形成に影響
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1158952870/l50
中国の学者たちは「中華文明のルーツを探るプロジェクト」の第一段階の研究活動で、「西ア
ジアを起源とする小麦が4500年前に中国の中央部地域に伝来したたことは、中国の北部で
根本的な農業革命を引き起こすきっかけとなり、この地域がそれ以後の長い間に中国の政治、
文化ひいては経済の中心となるための確固たる基盤を打ち固めた」という結論を引き出した。

陶寺、新砦、二里頭、王城崗など4ヵ所の遺跡から発掘された数万粒の炭化したさまざまな
種類の植物のタネなど貴重な植物遺物に対する測定や数量化分析を通じて、「紀元前2500
年から紀元前1500年にかけての時期に、この地域の農耕生産はアワを主な農作物としてい
た」ことが明らかになった。つまり、中国北部では伝統的な畑作農業が行われていたというこ
とである。

紀元前2500年から紀元前2000年までの竜山時代に、この地域においてはアワの栽培だけで
なく、イネもは重要な農産物となっている。二里頭時代に、イネの作付け規模や人々の生活に
おける地位はこれまでなく重要なものとなっていた。また、西アジアを起源とする小麦がこの
地域に伝来し、中国の商代(紀元前16世紀−紀元前1066年)の初期の二里崗期において、
イネの地位はいくらか低下し、小麦の作付け規模が急きょ大幅に向上した。この地域の農業
生産における小麦の台頭は、中国北部の畑作農業の作付け制度の根本的な変革を告げる
ものと言える。
38投稿者:777  投稿日:2009年08月30日(日) 13時46分27秒

362 :出土地不明:2006/12/12(火) 23:11:59 ID:zuw8bo3s

中国の北方の黄河流域の麦作は、そもそも中近東の麦作が入って来たもの
だから、その段階で、中国の北方文化の源流に、中近東系の文化があった
ことは間違いないだろう。中国の南方の稲作については、独自発生の可能性
が高いのだが。
以前いわれていた、山東半島には白人がいた!という日本の斎藤成也らの
説は、mtDNAの全長解析で否定されている。
殷の時代に相当する段階で、例のローランの美女みたく、あのあたりには
あきらかに白人系がいたことはわかっているし、あのローランの美女あた
りのmtDNAは、かなりの部分が、ハプログループが、H型で、あきらかに
白人系であることがわかるが、そのローラン近辺の白人とみられるミイラ
でも、個体によって、東洋系がかなりまざるという。
夏王朝時代の遺跡とされるものからは、大量の「焼肉料理」の痕跡も
あるので、中国の初期王朝が、半農半牧のような形で始まっていて、
その中には、ステップ地帯で、東西を結ぶような経路があり、西アジア
系の人々がかなり入って来ていた可能性はある。そしてそれを示すのが、
ローランのあの文化だろう。時代は、殷代に対応するし。
39投稿者:777  投稿日:2009年08月30日(日) 13時53分13秒

418 :出土地不明:2007/12/04(火) 14:34:08 ID:jARQXmZo

日本に伝播 青銅器、商・西周と共通点 特殊な鉛含有

 新井氏は、青銅器材料に含まれる微量の鉛を測る鉛同位体比法により、日中の青銅器計約3000個のデータを解析。
弥生関連の1052個を鉛同位体の比率の違いに注目して分類、共通点を探った。
 その結果、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、
中国最古の王朝とされる商(殷、前17〜11世紀)や西周(前12〜8世紀)の時代に
多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明した。
鉛の種類としては極めて特殊なものが含まれていたという。

 弥生時代については、国立歴史民俗博物館(歴博)が4年前、放射性炭素年代測定による分析の結果、
弥生期の幕開けは紀元前10世紀へさかのぼる−と発表して話題を集めた。
従来の定説では、日本へ青銅器が初めて流入したのは、前250〜200年。
遡上説をとる歴博によると前370年ごろ。
40投稿者:777  投稿日:2009年09月06日(日) 09時50分20秒

301 :出土地不明:2009/09/02(水) 03:57:30 ID:UboGEoDp

崎谷満先生の父系Y染色体による系統分析、の要約と補足

「日本人の出自から見たDNAの平均値 」

約38% D2型、日本にしか残されていないシベリア経由で入ってきた縄文人の血

約34% O2b型、ジャポニカ米と共に揚子江から海路渡ってきた弥生人(長江文明人、百越人)の血

約18% O3型、山東半島〜朝鮮半島〜日本と渡って来た漢族の血

約 5% C1型、インド経由、南方系海人族の血

約 1% N型、フィリピンに顕著に残り、ツングースも保有する血筋

約 1% C3型、樺太から北海道に、アイヌに残るバイカル湖経由のツングース系の血
     朝鮮半島から九州に、扶余の血? ルート違いのバイカル湖経由のツングース系の血

その他 1%以下、D1、D3型、チベットに残るテュルク系?の血
     O1型、台湾経由の大陸系の血
     O2a型、渡来時期、ルートの異なる長江文明人の血

(出身地域により特定血筋を多く持つ者も、全く持たない者もいます)

(アイヌより縄文人のほうが渡来が早いとの説もあります)

(扶余の祖、東胡も民族系列は謎、ツングースか、テュルクとの混血ともいわれます)

(扶余が天皇家とは限りません。蘇我氏説もあります。皇統断絶説、二回説もありますしね)

(朝鮮人はO2b型5割、O3型4割、C3型1割、O1型数%です)

(日本人は10種類もの血筋が入り混じった稀有な民族なんだそうです。負け犬の吹き溜まりとも、冒険野郎の終着点ともいえるでしょう)
41投稿者:777  投稿日:2009年09月06日(日) 10時03分41秒

2 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:49:09 ID:i6vCA21s

扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、
万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、
方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。
夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。

穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。

元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。
しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。

この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。
他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。
また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。


大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。
面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。
1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)

百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖が
つねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。
扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。
その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。
従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、
ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、
それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、
その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)

実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。
42投稿者:777  投稿日:2009年09月06日(日) 10時08分58秒

百済→王族は扶余族、大和朝廷と親戚 、民衆は長江文明遺臣の倭人(弥生人、百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は倭人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

任那→王族は扶余族、大和の直轄地、民衆風俗は新羅に似る

東胡→ツングース系? テュルクと混血とも、BC200年頃、匈奴に破れ四散

オロチョン→もっともツングースDNAが濃い。>ブリヤート>エヴェンキ>蒙古>満州>北朝鮮人>韓国人>日本人

扶余→東胡の末、穢族から分岐(日本に相撲、胡服を伝えた?)

穢族→(ワイ族、さんずいでカイ族とも)、東胡の末、穢四族(高句麗、扶余、沃沮、穢)に分裂

高句麗→コリョ族(高麗族、大和呼称はコマ族)、 東胡の末、穢族から分岐

高麗→高句麗は便宜上の呼称、高句麗が前高麗、高麗が後高麗、どちらもコリョ族

渤海→東胡の末、建国時高句麗遺臣も参画

蒙古→東胡の末、東胡→室韋(しつい)→蒙古

鮮卑→東胡の末

契丹→東胡の末

柔然→東胡の末

女真→東胡の末、満州族のこと、コリョ、渤海に近いともいう

突厥→テュルク系といわれる

匈奴→??人 、フン族説強し(民族大移動)、東胡を四散させた。
43投稿者:777  投稿日:2009年09月12日(土) 23時22分59秒

4000年前の「世界最古の麺」実物発見!

世界最古の麺が中国は青海省の遺跡で発見されたというニュースが出て来ました。
13日付の英科学誌ネイチャーにて中国科学院が発表したもので、直径約3ミリ、長さ約50センチの黄色い細い麺が土器(お碗)の底に張り付いた状態でみつかったということです。原料は粟と黍。時代は新石器時代後期。

以下、ひとまずYahoo!のニュースへのリンクをめもっておきます。(読売以外……な)

<最古の麺>中国北西部の遺跡から4000年以上前(毎日新聞)
「世界最古の麺」は4千年前=実物と碗発掘−黄河上流域が起源・中国(時事通信)
めんの起源は4000年前? 中国、土器の中から発見(共同通信)
44投稿者:777  投稿日:2009年09月12日(土) 23時23分37秒

1.原料は粟と黍だ。
ニュースでは麺の代表、ラーメン(中国)やパスタ(イタリア)との比較もあって小麦が原料でないことに注目しているらしい。しかし、4000年前ということを考えると粟と黍というのに寧ろ肯くところがあります。それが当時の華北の主食。
小麦は紀元前7000年(およそ9000年前)のメソポタミアで栽培化されて世界に拡がったということですが、紀元前4000年(およそ6000年前)の河南省の遺跡からコムギの出土例がいくつか報告されていて、中国における小麦栽培のごく早い例と考えられています。ですが、本格的に華北地方で小麦栽培がされるようになるのは漢代であるらしい。
それ以前は大麦か小麦かはっきりしない「ムギ」を示す甲骨文字があるだけなので、あんまり重要な穀物ではないか。どちらかというと、それもオオムギだろうと。オオムギは普通、粒食か挽き割りでお粥。

2.麺を作るには粉にする必要がある。
「穀物を食うべし」ということになると、まずそのまま粒で食うか粉にして食うかという点が大きい。
米や大麦や黍や粟なんてものは粒食すればいいのである。茹で上げようが蒸らそうが煮ようが、そうやって火が通れば食えるのです。
麺という状態にして食わねばならぬ状況というのは、それが粒を為さずそのままでは調理しにくい理由であるかもしれぬ。それは小麦であり、また蕎麦である。もろく粉状になりやすいため、その粉を加工する方法が、チベットのツァンパや蕎麦かき・蕎麦ねりの如く湯などで練り上げ食すもの。それを捏ねて焼けば縄文クッキーや原始パンのようなものになるかもしれない。
小麦や蕎麦が粉になるとは言っても、そのままで加工しやすい細かい粉になることはない。そこで臼が必要になる。

3.臼の原始的なかたちはすりうす。
エジプトの明器には、パン制作に関わる人を描いた人形などがある。その中でも、「粉をひく女」は著名で硯状になった下石とそれにあわせた上石で製粉する姿がよく現されている。この原始的な臼は「サドルカーン」といい、現在でも製粉に使う地域もあるし、インドなどでは一食分のスパイスをする際に用いるようである。(http://www.spelt.jp/s-jpn_spelt02.htm
このサドルカーンが中国で発見される早期の例は、紀元前4000年前の早期新石器時代の遺跡から。ところが、つぎの仰韶文化・大汶口文化といった中期新石器時代には、サドルカーンは消えてしまう。
それ以後で、中国に臼が登場するのは戦国時代の邯鄲の遺跡から発見された、回転式の石臼。現在でも製粉方法の基本的な道具とされる回転式の臼は「ロータリーカーン」と呼ばれる。

4.今回の発見に関する考察
1〜3までのことを今回の「世界最古の麺」発見の報に合わせて考えてみると、黍・粟がごく一般的な主食ではあったがサドルカーンやロータリーカーン等石臼の無い空白の時代に作られた麺だということになる。
ただし、石臼空白時代とは言っても実は、古代中華史の本舞台である華北(いわゆる中原と言い換えられるか)での話ではある。3でサドルカーンは中期新石器時代に消えるとしたが、内モンゴルや朝鮮半島ではその後も発見があるらしい。
今回の発見は青海省の遺跡ということで、黄河上流域だとは言っても黄河文明の範疇だとは考えてはいけないだろう。むしろ、昨今のシルクロード研究でも注目される古代楼蘭の文化圏ではないだろうか。
彼らの墓からミイラが見つかり、その特徴は白人のものに近いという。彼らが小麦と臼を携えて東行し、小麦文化とアワキビ文化が摺りあう地点で出来上がったのが、今回の麺であるかもしれない。
45投稿者:777  投稿日:2009年09月12日(土) 23時24分00秒

5.今回の発見に関するツッコミ
ところで、4000年以上前の技術でほんとうに麺状の食品が作れるかシミュしてみる。そもそも、キビとアワで麺は作れるのか?ってのがポインツ。
麺というのは普通は小麦で出来たものをいいます。中国語に堪能な方はご存じだろうが、漢字で「麺」と言ったら小麦食品をさすほどである。それは小麦が他の穀物と違ってグルテンをもつ特性と関係がある。グルテンがあるからびよーんと引っ張ってラーメンやそうめんを作れるし、板状に伸してから切り分けても崩れずひも状を保つことが可能なのである。
グルテンの少ない穀物で麺を作る場合の苦労は、十割蕎麦を打つことを想像してみるといい。非常に技術がいるのである。その場合どうするかというと、山芋やへぎそば(新潟)のふのり、冨倉そば(信州)のオヤマボクチの様なつなぎを使うことになる。
キビやアワにはグルテンがない。だから、小麦(グルテン)アレルギーの人には雑穀食や米食がいいのである。
では、キビやアワで麺を作りたい場合はどうするか?
自然食品の老舗・創健社では、あわ・きび・ひえの麺を製品化している。(http://www.sokensha.jp/detail.msp?id=1125)これはどうしているかというと、タピオカでんぷんを繋ぎにしている。余談ですが、この三商品うまいのでオススメ。雑穀ウマー。
では、つなぎなしでアワキビ麺は作れないかというと、ちょっと無理な気がする。アワキビまたは米は、小麦比べるとその実が堅いのだ。パスタ原料になるデュラム小麦は硬質小麦と言われ、「セモリナ」という粗挽き状態でも麺になるがそれはグルテンがある故のことだと思う。
アワキビから離れるが、近年、やはりアレルギー対策で画期的な商品が販売された。群馬製粉の「リ・ファリーヌ」。これは小麦アレルギーの子供でもケーキが食べられるようにと開発された、小麦粉のように使える米粉である。米粉なのに小麦粉のように扱える秘密は、その粒子の細かさであるらしい。これなら100%で麺にも加工できるかもしれない(http://www.kyoritsu-foods.co.jp/treebbs/treebbs.cgi?log=1073)。
しかし、4000年前の製粉技術でそれが可能だろうか?

更に実際に麺というか「ひも状」に加工する技術について。直径約3ミリ、長さ約50センチという形状はなかなか高度な技術で、幼児に紙粘土を与えても不可能かもしれない。粒子の荒い土粘土なら更に難しい。
粘土板を与えればその上を手で転がしのばすようにさせれば、難易度は下がるだろう。更に麺棒と粘土ベラを与えれば、粘土を板状にのばしてから切り分けて「切り麺」形状のものが作れるかもしれない。
まあ直径約3ミリというのは乾燥分を差し引いて考えるべきだとしても、50センチの長さはやはり驚きだ。
46投稿者:777  投稿日:2009年09月12日(土) 23時25分03秒

細かい粉を入手することと、創健社の麺の例から考えると……でんぷん抽出の技術があれば、小麦以外のものでも麺をつくることは容易な気がする。タピオカのようなイモ類は根菜農耕文化の産物なので、青海省では栽培はやや難しいかもしれない。ユリ科の球根性多年草なら可能性は高いかも。
でんぷんの存在を肯定的に捉えると、更に高度な技術ではあるが押し出し麺の可能性もある。
http://furong.mabinogion.net/archives/2005/10/4000.html
47投稿者:777  投稿日:2009年09月28日(月) 21時10分35秒

チンギスハン、「墓は四川に」 「末裔」が証言

 【北京=共同】世界史上の大きな謎となっている、13世紀にモンゴル帝国を築いたチンギスハンの陵墓の所在について、末裔とされる中国大連在住の女性が「陵墓が四川省カンゼ・チベット族自治州にある」と民間の歴史研究者に証言、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたことが28日までに分かった。

 埋葬地は盗掘を避けるため極秘にされたといわれ、モンゴルや中国内モンゴル自治区など諸説あるが今も不明。確認されれば大発見となるため中国の関係部門も9月、調査を開始した。

 北京在住の研究者、テムチラさん(54)によると、証言したのはチンギスハンの34代末裔とされるモンゴル族女性、ウユンチチガさん(80)。陵墓の場所は口頭で先祖代々伝承され、4年に1度は身内だけでお参りを続けてきたという。

 現場は山間部にある洞窟で、末裔は、中に当時の戦利品や書籍など多数の財宝が埋蔵され、洞窟内にある複数の穴の一つにチンギスハンがミイラ化した状態で保存されていると話しているという。 (20:07)

48投稿者:金髪  投稿日:2009年10月04日(日) 03時28分38秒

天然の金髪。金髪(きんぱつ、ブロンド、英: 男性形:Blond, 女性形:Blonde)は、赤毛と同様に、少量のユーメラニン色素の存在と、比較的多量のフェオメラニン色素の存在により特徴付けられる、各種の哺乳類に見られる金色を帯びた体毛である。金髪の色は明るい茶色から薄い金色までの範囲に及び、これらの様々な金髪に属する髪の色を持つ人間は、地球上の全人口の1.8%未満である。

明るい髪の色はあらゆる人種に対し、希少な突然変異として自然に発生する(いわゆる色素欠乏症)が[1]、ほとんどの人種に対しては、ほぼ無視できる低確率であるか、子供の間にしか見られない。しかしながら、ヨーロッパ圏の人種の間では金髪は他の人種より頻繁に発生し、しばしば成人期まで残存するため、これがヨーロッパ人固有のものであるとの誤解を与えている。最近の遺伝情報学に基づけば、ヨーロッパにおいて金髪の人口がはっきりと増加しだしたのは、最後の氷河期である約1万1000年前から約1万年前のことである可能性が高い。これ以前のヨーロッパ人は、他の人種の支配的な特徴である焦茶色の髪と暗い色の瞳を持っていた[1]。

なぜヨーロッパの各人種が、人類の進化の速度としては、かくも最近かつ急速にこのような高確率で金髪(と多様な虹彩の色)を持つようになったのかは、長年の疑問であった。このような変化が通常の進化の過程(自然淘汰)で起こったのであれば、約85万年の歳月が必要となった筈である[1]。しかし現代の人類は、アフリカからヨーロッパまでの移住を成し遂げるまでに、僅か3万5000年から4万年の期間しか費やしていない[1]。セントアンドリューズ大学の後援を受けたカナダの人類学者ピーター・フロストは、最後の氷河期の終わりにおいて金髪の人種が急速な発生を見たのは、性淘汰の結果であるとの説を、2006年3月に Evolution and Human Behavior において発表した[2]。この研究によれば、多くのヨーロッパの地域において金髪と青い瞳を持つ女性は、乏しい数の男性を相手にした過酷な配偶者獲得競争において、彼女らの競争相手より優位に立てたのである。ヨーロッパ圏において食糧不足の為にクロマニヨン人の人口が低下していた1万1千年前から1万年前の時期において、金髪は増加を見たのであると、研究は主張する。ヨーロッパ北部におけるほとんど唯一の食料源は放浪するマンモスやトナカイ、野牛、野馬の群れのみであり、それらの獲物を発見するためには長く困難な狩りのための遠出が必要であり、狩りの間に多くの男性が命を落としたために、生き残った男性と女性の比率の不均衡が生じた。この仮説では、金髪の女性はその際立った特徴が男性を獲得する際に役立ったために、その結果として金髪の人口の増加につながったのであると主張されている。

『The History and Geography of Human Genes』(1994年)によれば、金髪は紀元前3000年頃に現在リトアニアとして知られる地域において、インド・ヨーロッパ祖語族の間でヨーロッパの支配的な頭髪の色となった(現在においても、リトアニアは金髪人口の比率が最も高い国として知られている)。男性が金髪の女性を魅力的であると見なすようになったために、この特徴はスカンジナビアへの移住が行われた際にも、性淘汰によって急速に広まったのであると考えられる[
49投稿者:金髪  投稿日:2009年10月04日(日) 03時30分38秒

金髪は北ヨーロッパ、特にオランダ、北欧諸国、ロシアの人々の典型的な特徴であり、このため非常に明るい金髪は、しばしば「ノルディック・ブロンド(北欧のブロンド)」と呼ばれる。これより暗い色合いの金髪は、ヨーロッパ全域はもちろん、現在のシリア人やレバノン人、ペルシャ人、クルド人や、イラン、アフガン、パキスタンのイラン人などの、中東の様々な地域でも見られる。ただし北欧三国(ノルディック)を除けば概ねどの地域もブロンドは少数に過ぎず、ドイツで10%、イギリスに至っては3%しか存在しないとするデータも存在する。とはいえ詳しい分布や割合に関しては、染めたブロンドを判断するのに大きな手間があることや、人種差別運動に関わる可能性への配慮など、難点が多い為に大規模で信頼性のある調査は行われていないのが現状である。

一般に、ヨーロッパのブロンドは淡い瞳の色(青、緑、明るい茶色)や、(しばしばそばかすを伴う)ピンクベースの色白の肌と関連している。強い太陽光線はあらゆる色の髪を徐々に退色させるばかりでなく、多くの金髪を持つ人々の、特に少年期の肌にそばかすを生じさせる。また、オーストラリアのアボリジニ、特に大陸西中央の地域の先住民も、かなりの確率で黄色がかった茶色の頭髪を持っている[5][6]。オーストラリア先住民の金髪は主に女性と子供に見られ、通常は年を取るにつれて濃い茶色に変化していく
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%AB%AA
50投稿者:金髪  投稿日:2009年10月04日(日) 13時02分37秒

3 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2009/04/08(水) 08:08:57 ID:84YcVd/X

日本語でイギリスというとブリテン英国全体となるが、金髪の多いのは
ドイツ北部やデンマークから来たゲルマン人の子孫が住むイングランド。

ケルト系が多いウェールズやスコットランドは濃い髪の毛が多い。


金髪 紺碧ランキング SとA以外は大差なし。


S ラトビア、リトアニア、エストニア、フィンランド、

A スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランド


・・・・・・越えられない壁・・・・・・・・・・・・・・

B ロシア、ベラルーシ、ウクライナ(半々)、ドイツ(北部)、オランダ

・・・・・・小さな壁・・・・・・・・・・・・・・・・・・

C ハンガリー、ポーランド、イギリス、チェコ、スロバキア、カナダ(北欧・東欧系)、ニュージーランド、オーストラリア

D オーストリア、スロベニア、クロアチア、セルビア、アメリカ(北欧・東欧系)、スイス、ブルガリア、ベルギー 

・・・・・・小さな壁 ・・・・・・

E ルーマニア、イタリア、ブラジル(ドイツ東欧・北イタリア系)、フランス、アイルランド、アルゼンチン(ドイツ東欧・北イタリア系)

F ポルトガル、スペイン、ギリシャ、トルコ、アルバニア

wikipediaより
*現在においても、リトアニアは金髪人口の比率が最も高い国として知られている
*北欧三国(ノルディック)を除けば概ねどの地域もブロンドは少数に過ぎず、
ドイツで10%、イギリスに至っては3%しか存在しないとするデータも存在する。
51投稿者:777  投稿日:2009年10月25日(日) 10時32分13秒

始皇帝とアダルトチルドレン

 生徒A「始皇帝って、アダルトチルドレンだったんですか?」はいはい、そう結論を急いではいけません。デス見沢が言っているように、アダルトチルドレン(以下AC)を拡大解釈すると、世界中でACでない人はいなくなってしまいます。始皇帝は、いわゆる「本物のAC」であったのではないか、という、あくまで私の歴史学的な推測であります。実は政治家にはACが多く、先日不適切な関係をゴマカすために他の国にミサイル撃った方も、確か親がアル中で「私はACであった」と言ってます。実際にACとしての治療も受けてます。ついでにロシアの大統領もアル中。

 で、始皇帝の話に戻りましょう。彼は本名を政といいます。政が治めるから政治と言いますね。って今、そこのあなた、本気にしたでしょう。これは今私が思い付いたのです。でも、ひょっとしたら本当にそうかもしれません。話がソレますね。

 

 始皇帝については、あなたたちは、たぶん学校の歴史の授業では「冷酷非道な鬼のような奴」と習ったと思います。あまり良い印象はないですね。実はこれは、歴史家の司馬遷と、後の歴史家達のせいなのです。そう、司馬遼太郎という名前のもとになった人ですね。ちなみに私は死ヴァで、全くの他人です。

 

 司馬遷は、儒学者でした。で、始皇帝は、有名な「焚書坑儒」をやった人。学者仲間を惨殺した張本人ですから、当然良い書かれ方はしませんね。歴史ってのは、こういう風にあくまで誰かの「主観」で書かれているものですから、どんな歴史書を読む時にも、この点を注意しなければいけません。また、焚書坑儒についても、かなり誤解があります。歴史の授業では、自分だけを敬わせるために儒教(親を尊べ)が邪魔だった、と習ったと思いますが、それは後になって儒学者達が勝手に言ったこと。しかも、焚書と坑儒は別々の事件です。

 

 焚書ってのは、別に儒教の本だけを燃やしたわけじゃなくて、単なる言論統制です。中国統一に批判する発言を取り締まっただけ。こんな話は今でもあるでしょう。まあ、始皇帝が儒教を嫌いだったのは本当なようですが(後述)、好き嫌いで中国統一は出来ませんね。また、坑儒ってのは、あとに始皇帝は不老不死の研究を始めるのですが、その時に学者たちがデタラメなことを皇帝に言って、しかも失敗した責任を言い訳して逃れようとする。今のマスコミお抱え心理学者みたいなもんです。で、怒った皇帝が、お前らみんな死ねって殺したのがこの事件。別に儒学者だから殺したわけじゃなく、殺した学者の中に儒学者が多かっただけのことです。やっぱり、学者として、言った事の責任はとってもらいたいと思います、私も。

 

 で、本題のACの話ですが、始皇帝は子供の頃に親の愛情が足りなかったのか、という話ですが、始皇帝はそんなハンパなものじゃありません。はっきりいって、死ななかったのが不思議なくらい虐待されて育ちました。始皇帝の全身には火傷の跡があったといいますし、生き埋めにされたことも何回もあったようです(その後、始皇帝が生き埋めの刑を好んでやったのと関係あるかもしれない)。長い事人質の生活を送っていたので、母親がヒステリーになってたようですね。また、当時は人質を大事にする習慣もなかったので、他の人たちからも直接酷い目に合っていたようです。

 

 また、始皇帝は、秦の王族の血をぜんぜん引いていなかった、という説があります。始皇帝の母親は歌姫で、先代の王=始皇帝の父親に見初められて妃となりましたが、そのときに既に始皇帝を身籠っていた、という説です。誰の子供かというと、その歌姫をかこっていた商人・呂不韋。まあ、王の子供の可能性もあるのですが、当時は遺伝子鑑定とかないですから、これは何ともいえません。また、これが虐待の原因の一つになっていたことも考えられます。親を尊べって言われても、これじゃ無理ですね。


52投稿者:777  投稿日:2009年10月25日(日) 10時39分38秒

で、運のいいことに、王が次々と死んでいって、のちの始皇帝・政は13歳で秦の王となり、人質から解放されました。まあ、13歳で政治はできないので、22歳までは、父親の疑いのあるさっきの商人・呂不韋が政治をします。22歳になってやっと名実ともに本当の王になれた政は、子供の時の虐待で当然バリバリの人間不信に陥ってますから、誰も信用しません。自分の居所すら部下に知らせません。自分の居所を誰かに知らせた者は、その場で死刑。

 

 普通、そんなんじゃ部下使えないだろう、と思いますね。しかし、始皇帝の凄い所は、このバリバリの人間不信を有効に使って、中国統一までしてしまったことです。最初っから「部下は裏切るもの」と決めて雇っているのです。部下にはそれぞれ相互監視とスパイ、スパイにはさらにスパイ、さらにそのスパイ、というように、何重にも諜報網をかけています。で、ちょっとでも怪しい動きをした者はすぐに死刑。密告をすることすら危険でした。密告というのは、自分を利用して誰かを殺そうという事。始皇帝は、他人に利用される、ということを何より嫌ったのです。だから、スパイはお互いに全く面識のない者とした。まあ、スパイも信じてなかったでしょうから、スパイの報告は別のスパイを使って必ず何回も確認させたでしょうけど。ここまで徹底して人間不信を実行するのは、並の精神では出来ません。

 

 こういうやり方で戦争もやっていくものだから、兵隊も自分の国を裏切れない。裏切ったら一族皆殺し。あ、言い忘れましたが、始皇帝は死刑といえば一族皆殺しでした。これは、残忍な性格だからではなく、残った家族から恨みを買うことを防ぐため。始皇帝は、現代の人間よりはるかに合理的なことを重んじる性格だったのです。いや、そういう性格になった、といった方が正しい。

 

 それから、親に対してはどうだったか。22歳で実権を握るとすぐに、今まで事実上政治をやってきた、父親疑いの呂不韋に対して「お前何様のつもりで政治やってんのよ」という手紙を出します。呂不韋は始皇帝の性格を知っていますので、生き埋めにされるよりは、と自殺します。もちろん、始皇帝は最初っからこの男を殺すつもりでした。自分の父親の疑いがある男と言えども、いままで政治やってた者が裏切った場合、自分の命が危ないからです。

 

 母親も政治にちょっかい出そうとしてきましたが、さすがに母親は殺しませんでした。そのかわり、永久に幽閉しましたけど。その時母親と浮気していた奴がいて、そいつが母親をそそのかしたらしいですね。そいつは当然一族(七族)皆殺し。

 

 親ですらこうなのだから、ましてや他人は、と考えると、誰も裏切ろうとは思いませんよね。でも、これで中国統一が成り立ったのです。始皇帝の思想は、血脈の否定と完全な安全保障です。子供の頃の虐待の経験を生かした思想です。現代のACや、虐待の経験のある人にも、始皇帝の思想は何らかのヒントになると思います。

53投稿者:777  投稿日:2009年10月25日(日) 10時42分05秒

あと「皇帝」という言葉を作ったのは、文字通り始皇帝です。最初は「泰皇」という、一番偉い人という意味の古の称号を使う予定だったらしいのですが、始皇帝はこれに大地母神の配偶者、という意味の「帝」をくっつけて「皇帝」としました。天と地の夫婦、という感じですね。始皇帝の理想の夫婦像があったのでしょうか。でも、始皇帝の妻は何人かいたのでしょうけど、歴史上には出てきません。子供も信用してませんでした。秦は始皇帝の死後、わずか4年で滅びました。

 

 始皇帝が自分の居場所を知らせないのは、死ぬまで続きました。結局、死ぬまで誰も信用しませんでした。
http://www.dango.ne.jp/nofuture/sundown2.html
54投稿者:777  投稿日:2009年10月25日(日) 10時45分00秒

紀元前二五九年、後の始皇帝は、趙(ちょう)の都、邯鄲(かんたん)で人質となっていた公子の子楚(しそ)の子として生まれた。
名は「政(せい)」と言った。
この時、秦は昭王(しょうおう)の代、太子の安国(あんこく)君には二十余人もの男子がおり、子楚はその内のひとりだった。

彼の生母の夏姫(かき)が安国君の寵愛を得られなかったことから人質として趙に送られていたのであった。
子楚は、自分が世継ぎになるなど考えたこともなかったであろう。

 この子楚に目をつけたのが一商人であった呂不韋(りょふい)である。

 彼は諸国を往来し産品を安く仕入れ、時期を見て高く売りさばく「投機」で千金の富を築いた豪商であったが、子楚を知り、「奇貨(きか)、お居くべし」(掘り出し物だ。買っておこう)と思った。

 当時、太子の安国君の寵愛を受けていた華陽(かよう)夫人には実子がなかった。
 呂不韋は子楚に自分の財産の半分を賓客達との交際に使うよう与え、あとの半分を華陽夫人に取り入るための工作資金とした。

 安国君が秦王となり、別の夫人の子供が太子に決まれば、華陽夫人は今の地位を失ってしまう。
呂不韋はそこに目をつけていた。
工作は成功し、華陽夫人は子楚を自分の養子とし、そして夫の安国君は華陽夫人のねがいを聞き入れて世継ぎに決めたのであった。

 ところで、呂不韋には愛人がいた。
邯鄲の舞姫で、呂不韋の子供を身ごもっていた。

 ある夜、呂不韋が子楚を招いて酒宴を張った。
子楚は舞姫を一目見て気に入り、呂不韋に女を譲って欲しいと頼み込んだ。
さすがの呂不韋も腹を立てたが、子楚には全財産をはたいている。
ここは大事の前の小事と思い直して、この舞姫を子楚に譲った。

 だが、彼女は呂不韋の子を宿している事を子楚には告げなかったのである。
予定日より二ヶ月遅れで「政」が生まれ、子楚はまもなく彼女を正夫人にした。

 つまり、始皇帝「政」は表面上は子楚の子であるが、実際は呂不韋の子であり、秦王室の血は一滴たりとも受け継いでいないのである。

 こうして、紀元前二五○年、父のしそ子楚は秦の太子となり、「せい政」もちょう趙より帰国する。
 翌年、子楚は荘襄王(そうじょうおう)として即位するが、紀元前二四六年、荘襄王はわずか在位五年あまりで死去し、「政」はわずか十三才で帝位に就くのである。

 以後、十年あまりは呂不韋が相国として政治の実権を握り、栄華を楽しむ。

 始皇帝はいつ自分の出生の秘密を知ったのであろうか。

「政」という人間のすごさは、この血脈を逆手に取り、実の父の呂不韋を除いて、天下統一に乗り出したことにある。
http://heitate.blog37.fc2.com/blog-entry-50.html
55投稿者:777  投稿日:2009年11月28日(土) 09時08分44秒

●古代・中世のロシア

 紀元前のロシア地域には、後にスラヴ人と総称される遊牧民の集団がいました。これに加え、主に南部にギリシアの商人なども住みつき植民地を建設。その後4世紀に、ヨーロッパ史上に大きな影響を与えることになる、有名なフン族が侵攻し、ウクライナを中心とした広い地域を支配しました。

 やがてアヴァール族、マジャール族、ハザル族などもやってきて、このうちハザル族系が10世紀までかなりの勢力を持ちます。またスラヴ人も交易に従事し、キエフやノヴゴロドと言った都市を建設します。これらの勢力間の争いは絶えなかったようです。
 そのため誰かリーダーが欲しい。そこで目をつけたのが当時ヨーロッパ中に移住─時には襲撃もしていたヴァイキング(ノルマン人)。このうちスカンディナヴィア、つまり北欧にいる首長リューリクを招くことになりました。こうして862年、ロシアで初めての国家ノヴゴロド公国が誕生、ノルマン人とスラヴ人との混血が急速に進みます。彼らはルーシと呼ばれていたことから、ロシアという名称が発生します。

 リューリクが死ぬと、その息子イーゴリが年少であるため、遺言で一族の有力者オレグを後継に。彼はキエフを占領し、首都にします(キエフ・ルーシ)。さらにビサンツ帝国の都コンスタンティノープルへ侵攻し、商業上有利な条約を結ぶなど勢力をどんどん拡大してゆきます。

 が、跡をついたリューリクの子・イーゴリ公(位 912〜945年)はコンスタンティノープル遠征に失敗。さらに税金の取り立ての失敗もあり、恨まれて暗殺されます。この後、聡明な女性だったイーゴリの妻 オリガ が摂政を務め(ちなみにロシア大公で初めてキリスト教に改宗)、徴税の方法などを変更して紛争が起こらないようにします。

 次いで、イーゴリとオリガの息子スヴャトスラフ(位 964〜972年)は生涯の大半を戦に費やし、周辺部を征服したほかブルガリアのブルガール帝国と戦います。しかし、彼はペチェネグ族に殺されてしまいます。またこの過程でユダヤ人が多く住む地域を占領し、彼らの商業活動と文化を取り込みます。

 彼の死後、息子達は後継者争いを起こし、ウラジーミル大公(位 980〜1015年)が勝利を収めます。彼は988年にビサンツ帝国からキリスト教を受容。元々ギリシャ正教は土着主義を原則としていることもあり、典礼はスラブ語で行われました。これが後にロシア正教会へと花開いてゆきます。また彼はビサンツ皇帝の妹アンナを妻とします。こうしたことから彼は聖ウラジーミルとも呼ばれます。

 が、彼の死後またまた後継者争い。1019年にヤロスラフが勝利し、彼のもとでキエフ・ルーシは繁栄の頂点を迎えます。彼はキエフに聖ソフィア聖堂を建設し、さらにロシア初の成文法「ルスカヤ・プラウダ(ルス法典)」を制定、後のロシア法の基礎となります。また後継者争い防ぐため、兄から弟へ、年齢順に相続させることにさせました。でも後継者争いは無くならないんですな。
 
 結局、繁栄を極めた後は、衰退。キエフ・ルーシは分裂をはじめ、ノヴゴロドに至っては市民の民会(ヴェーチェ)による自治共和国となりました、つまり住民自身の統治が行われるようになったのです。さらに、この頃からポーランドやドイツ騎士修道会などが侵攻してきます。

http://www.uraken.net/rekishi/reki-ro01.html
56投稿者:777  投稿日:2010年01月07日(木) 21時07分36秒

もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。

これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。
57投稿者:777  投稿日:2010年01月07日(木) 21時09分13秒

中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。

今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。
http://sawyer.exblog.jp/7178292/
58投稿者:777  投稿日:2010年01月11日(月) 21時15分12秒

日本人は南から移住か 遺伝情報でルート推定 (共同通信 他)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/238.html

 東アジア、東南アジア、南アジアの住民のゲノム(全遺伝情報)の分析によって、日本人の多くは、アフリカからインドに入り、
タイなどを経て北に向かった集団の流れをくむと推定されるとする研究結果を国際チームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。
 東アジアの人は、主に南から来たという説と、少なくとも北からと南からの2ルートはあったという二つの仮説があり、今回は前者をより強く支持する結果という。

http://www.excite.co.jp/News/society/20091211/Kyodo_OT_CO2009121001000829.html

日本人におけるミトコンドリアゲノム多様性
○田中雅嗣(岐阜県国際バイオ研究所)

【背景】ミトコンドリアDNA (mtDNA)の全塩基配列に基づいた世界人類のミトコンドリアDNAの多様性に関する最近の分析は、ヒトのアフリカ起源説を支持する確固たる
証拠を提供している(Ingmanら、2000)。100,000年前以降に、少なくとも2つのmtDNA人間血統が、急速にアフリカから旧世界に広がり始めた(Maca-Meyerら、2001)。
考古学的記録は約30,000年前に人間が極東アジアの日本に到着したことを示している。(Gloverら、1980)。
 その頃、日本は北と南の陸橋によってアジア大陸とつながっており2つの移入ルートが可能であった。13,000年前に日本とシベリアにおいて世界で初めての土器
が出現した(Shiraishi 2002)。その後の技術的な改良は、日本の新石器時代の縄文文化をもたらし、かなりの人口成長が見られた。その後大陸の人々が朝鮮半島から
の日本に到着し弥生時代が始まり、約2000年前に人口の流入は最大となったと推定されている。

【研究方法】東アジアのmtDNAの系統樹を構築するために、私たちは日本人672個体のミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。
これにより、アジア人942個体の全塩基配列を使って系統発生を分析することが可能になった。
日本人mtDNAの全塩基配列データから新しい分岐および小分岐が同定された。
この明白な系統樹に基づいて、私たちはアジア人4,713個体のmtDNAの部分的塩基配列を10%未満の誤差で分類した。

【結果および考察】人口および系統地理学的な方法を適用して、日本列島におけるヒトの定住の歴史において論争の的になっている問題を明確にするために、
mtDNAの部分配列を利用した。人口に基づいた比較によって、現代の日本人が北アジア人、特に韓国人に最も近い遺伝類似性を持っていることを確認した。
このことは、弥生時代以降に中国大陸から日本へ遺伝子の拡散が生じたとする従来の説と一致する。

一方、この系統地理学的なアプローチによって旧石器時代の日本人が高度に分化していたことが明らかになった。琉球人とアイヌ人において基礎的なMおよびN系統
が存在することから、古代において南方と北方からの移住があったと推定された。さらに、日本人とチベット人との間の直接的な関係も明確になった。
これはY染色体の研究結果と一致した結果である。更に、いくつかの小分岐が日本において最も高い多様性を示したことから、日本がアジア大陸への移住拡大していった地域の一つであると推定された。

【結論】ミトコンドリアゲノム多型から描き出されたこの複雑な像は、日本への定住の歴史を説明するために提案されてきた従来の理論では十分に説明できない。

http://www.nms.ac.jp/nms/jmito/NENKAI03/DAI3Y41-50.html

59投稿者:777  投稿日:2010年01月11日(月) 21時16分23秒

古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン  【ニッポン民俗学】
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/235.html

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html

古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン

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▼朝鮮人と日本人

 朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。

 朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。

 日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。

 朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。

▼南アジア人と北アジア人

 初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。

 次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。

 朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。

▼半島北部の「中国人」支配

 東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。

 実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。
60投稿者:777  投稿日:2010年01月11日(月) 21時16分58秒

このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。

▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場

 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。

 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。

▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。

 この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。

61投稿者:777  投稿日:2010年01月11日(月) 21時17分33秒

▼百済と高句麗

 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。

 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。

▼新羅と加羅

 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。

 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)

 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

62投稿者:777  投稿日:2010年01月11日(月) 21時18分17秒

▼朝鮮人形成の方向性

 改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。

 朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。

 地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。

 つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)

 実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。

(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html
63投稿者:777  投稿日:2010年01月27日(水) 21時26分02秒

台湾人は漢民族ではない―知っておきたい隣国の真実
2009/02/01/Sun

■最新の研究結果―南島語族の起源は台湾  

台湾では人口の八四%が所謂「本省人」で、一四%が戦後中国から渡って来た「外省人」、そして二%が原住民とされるが、これまで本省人は清国統治時代(一六八三〜一八九五)に移民してきた漢民族の子孫で、原住民はそれ以前に東南アジアから渡って来たマレー・ポリネシア民族(オーストロネシア語族=南島語族)と説明するのが常識だった。

この南島語族の居住地はフィリピン、マレー、インドネシアはもとより、イースター島に至るまでの太平洋の島々、そして西はアフリカのマダカスカル島に及ぶなど、範囲の広さでは世界一の語族である。ではこの語族はどこから拡散したかと言うと、かつては『コン・ティキ号漂流記』で知られるヘイエルダールの南米のインカ族が起源だとする説が有力だったが、その後この仮説に多くの欠陥があることが判明。今日では言語学研究によってインドシナ半島を起源とする説が有力で、中国沿海部、台湾とする主張も見られる。

そうした中、「マレー・ポリネシア人の起源は台湾だ」との研究結果が、一月下旬の米誌「サイエンス」で発表された。

これはニュージーランドのオークランド大学の地域言語学研究によるもの。東南アジア、太平洋地域での四百種以上の言語をコンピューターで分析し、簡単な動詞、動物、色、数字などの基本的な語彙の比較から、同語族の移動ルートを割り出したのだ。

その結果「南方民族は五千二百年前に台湾を出発し、東南アジアで約一千年滞留。その後の一千年以内の時間内でフィージー、サモア、トンガに至り、そこで約一千年留まった後、さらにポリネシアへ進出。最後はニュージーランド、ハワイ、そしてイースター島へと拡散して行った」と言う。ちなみにニュージーランドでは、マオリ族が定住したのは今から七、八百年前とのことだ。

研究グループによると「丸木舟を用いる優れた航行技術があったため、速いスピードで太平洋諸島に拡散できた。偉大な人類の移動の旅だった」とのこと。まさに壮大なロマンを書き立てる話である。

ちなみに最近のDNA研究からも、台湾を南方語族の起源とする結果が出ており、台湾の原住民にとっては誇りともなろうが、ここで台湾人全体が考えなくてはならないことがある。

■台湾人は漢民族移民の子孫ではなかった

上記の研究結果が発表されるや、台湾の学者である沈建徳氏は「自由時報」(一月二十五日)に一文を寄せ、「台湾人(※本省人)は南島語族であって中国人ではない。外国人にはわかっているのに、自分たちには先祖が原住民であることがわかっていない」と主張した。

次のように語る。

――― 一八八五年、劉銘傳(※清国の台湾巡撫)は「台湾の沿海八県の地(台湾西南部の人口密集地域)では、番が六割で民が四割を占める」と上奏した。「番」とは番(原住民)で、「民」とは漢化された番のことだ。

――― 一八九六年、日本の学者、伊能嘉矩が士林(※台北の地名)で観察したところ、山地のケタガランの平埔族と街中の「漢人」は体格も顔立ちも変わらなかった。

――― 一九四七年に二二八事件が発生したとき、英紙が「六百万の島民の圧倒的多数は中国人で、中国による合併を歓迎した」と報じたところ、英国外務省(一八六○年ごろから台湾で公館を設け、台湾の「漢人」が「番」であることをよく知っていた)は、直ちに「台湾人は中国人ではない。それは中国人が言っていることだ。実際には圧倒的多数の台湾人は原住民で、明国時代以来、中国の支配をほとんど受けていない」と糾している。

沈建徳氏はこれまで、統計学の観点から、台湾の人口の歴史的変遷を克明に調査し、台湾の「本省人」が清国統治時代に同化(漢民族化)させられた原住民の子孫であり、移民の子孫とするのは古文献上の記録の政治的捏造であることを突き止めた人物。その研究成果の正しさは、医学界での住民のDNA調査でも裏付けられているのである。
64投稿者:777  投稿日:2010年01月27日(水) 21時27分00秒

■漢民族意識を放棄せよー「台湾民族」が台湾を守る

だがこの事実を台湾人がなかなか受け入れようとしないのは、国民党の中国人化教育の影響、そして原住民を蔑視する伝統意識(これも漢化の影響)などと言った理由考えられるようだ。

そのため血統上は異なっても、漢民族意識があるかぎり、台湾人は漢民族のままである。しかし台湾人は中国の漢民族との比較を通じ、自分たちが異質の存在であることを知り、台湾人意識(台湾人としての誇りの意識)を高めているはずである。日本人から見ても台湾人は、漢民族よりも正直でやさしく、開放的な性格を持っており、民族的なDNAの違いが感じられる。

それならば、以上のような歴史的経緯をも踏まえ、「台湾民族」を形成するべきではないだろうか。ホーロー人、客家人、原住民とのグループの違いはあっても、今ではすでに言語、生活様式は一致しており、誇りある「台湾民族」と自認さえすれば、それでいいはずである。

また外省人にしても、こちらは漢民族の血統とは言え、本省人社会での同化を通じ、今やその性格は中国の漢民族とは違っている。日本人から見れば本省人とほとんど区別がつかないほどだ。従って同様に「台湾民族」への帰属意識を確立すれば、その日からその一員となれるはずだ。

そうしなければ、中国の「両岸関係の平和発展は両岸同胞の交流と協力、……中華民族の偉大な復興に有利。…大陸と台湾が一つの中国に属することを両岸関係の平和発展の政治的基礎にするべき」(昨年末の胡錦濤の「重要講話」)と言った、台湾人の「同胞」「中華民族」意識に訴える統一攻勢に、どこまで抵抗できるかはわからないのだ。

逆に「台湾民族」の存在をアピールすれば、必ずや国際社会に対し、「一つの中国」の誤謬から脱する大きな契機をもたらすこととなるだろう。

日本民族にとっても、世界で最も親しく、信頼できる兄弟のような「民族」が隣国に誕生することとなり、これほど嬉しく頼もしいことはない。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-644.html
65投稿者:777  投稿日:2010年01月27日(水) 21時48分30秒

台湾人は漢民族ではなかった

●台湾人と中国人は同じ民族だと誤解する日本人

 台湾という国を、日本人は知っているようで知らない。どうせ中国と同じ民族なのだから仲良くやればいいじゃないか、と言う人が少なくない。一般の日本人ばかりでなく、台湾について勉強している学者や研究者でさえ、同じようなことを言う。

 つまり台湾人は、二パーセントの原住民、一三パーセントの外省人(蒋介石と一緒に台湾にやってきた人間)、残り八五パーセントの本省人(戦前に台湾に移住してきた人間)なのだから、九八パーセントはもともと漢民族ではないか、と。

 これは誤解でしかないが、ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。

 台湾が世界史に登場してきたのはつい最近で、一七世紀になってからである。では、それ以前の台湾にはほんの一握りの人間しか存在していなかったのかというと、そうではない。

 台湾が歴史に登場したのは一六二四年で、オランダがアジアとの貿易をするうえでの中継点として登場した。ご承知の通り当時のオランダは、非常に航海技術が優れていて、貿易が盛んだった。今の会社の原型といわれる東インド会社も彼らによってつくられた。当時の彼らは、西洋のものを日本や中国に売り、あるいは東洋のものをヨーロッパに売っていた。オランダはその中継点として、台湾と中国のあいだにある島で、大きさは新潟県の佐渡島の五分の一ぐらいの澎湖島という島を選んだ。

 当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦い、結局は和解したが、明朝の条件としては、澎湖島は返してもらう、その代わりに台湾をあげるからというものだった。台湾は中国にとって、そのくらい無用のものだった。そして一六二四年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五〇万人だったという。今から一〇年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二〇万人は山に、三〇万人は平野に住んでいたのである。

 余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

●台湾に来たがらなかった中国人

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七〇〇〇人から八〇〇〇人で、五〇万人のなかの八〇〇〇人だ。人口の一・六パーセントにすぎない。

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三八年間つづいたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功が多くの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六二万人であり、中国からやってきたB成功一族と彼の軍隊はそのなかのたった三万人なのである。

 その一族が台湾を統治したのは二二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だったからだ。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に一〇人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国のことわざが残っているほどだ。

 実際、清朝は二〇〇年間にわたって台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、一〇人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばんよい食事、いちばんよい環境、いちばんよい住まい、つまりいちばんよい衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

 そして、一八九五(明治二八)年に日本が台湾を領土としたときの人口は二五〇万人だったが、そのとき、清朝出身者のほとんどは中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識はいかに間違っているかがよくわかるのである。
66投稿者:777  投稿日:2010年01月27日(水) 21時48分43秒

●税金のために漢民族になろうとした原住民

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われている。

 熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない原住民を指す。山に住んでいる原住民は首を狩る。そのことを「出草」という。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人が漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

●血液学からも台湾人は漢人でない

 台湾の人口は、一六二四年の五〇万人から一九四五年にはざっと六〇〇万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二〇〇年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

 日本が統治した当時の人口は二五〇万人で、もちろん日本統治の五〇年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五〇年間で六〇〇万人になったのである。ただ一九四五年以降、台湾から引き揚げた日本人は約四〇万人いたから、総数としては六四〇万人ということになる。そのなかにもし中国人がいたとしても、ごくわずかなのだ。

 血液学的調査でも、台湾人が漢人でないことは証明されている。台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明しているのだ。

 台湾人は漢民族ではなかったのだ。
http://kb-news.at.webry.info/200904/article_15.html
67投稿者:777  投稿日:2010年01月27日(水) 21時50分20秒

SAPIO7月11日号によると、今年4月末、台湾の遺伝子学会
から「台湾人は実は漢民族と全く異なる南アジア・越族の子孫である」
との研究結果が発表され話題となっている。

 これまで、日本の植民地統治後、大陸から台湾に渡ってきた外省人
に対して、それ以前から台湾に住んでいた本省人のビン(門に虫)南、
客家系の台湾人の血統について先住民との混血で既に漢民族とは言え
なくなってしまっているというのが定説だが、馬偕記念病院の林媽利
教授によると、実はそれ以前に、初めから漢民族ではなかったという
のだ。

 林教授らは台湾人計167人のHLA(ヒト白血球型抗原)を採取、
HLA遺伝子の型の比率を調べた結果、台湾人は南アジア人種に属し、
北方漢民族とは血統的に大きく隔たっていたというもので、越族の
子孫の子孫であるという結論に至ったというもの。

 ここで言う越族とは、現在の中国東南沿岸部に居住していた民族で、
黄河流域発生した漢民族「中原文化」の強勢にあって漢民族に同化さ
れた人々で、現在北ベトナムに住む人々もこの流れをくむという。

 また、台湾人には一族に代々伝わる族譜(家系図)があり、自分
たちの祖先を漢民族だと自ら信じてきた点についても、林教授は、

「族譜は一部を除いて大部分は本当ではないと言われている。かつて
 漢民族は他の民族を蛮族と呼んでいた。その時代に自分は漢民族と
 言い切ることが『生きる道』だった」に過ぎないとも。

 さらには、ビン南、客家系台湾人は、台湾の先住住民である原住民
との混血であるとの学説もあるが、台湾人の13%のHLAが原住民
の遺伝子と一致している過ぎなかった。

 これについて、林教授は、先住民の平埔族などは今では殆どその
存在が分からないが、彼らはビン南、客家人が台湾に押し寄せた際、
自らを「漢人」に同化させなくてはいけなかったため見分けが付か
なくなったとの分析をした。それはちょうど、ビン南、客家人と漢
民族の関係と同じだという。




(平成13年7月25日号)

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H13/1307/130715taiwan-gene.html
68投稿者:777  投稿日:2010年02月14日(日) 22時58分55秒

コメの大きさを決める遺伝子を発見!日本のお米の起源に新説!

農業生物資源研究所では、農林水産先端技術産業振興センター農林水産先端技術研究所や富山県農業研究所と共同で、お米の粒の幅の決定に関与する遺伝子の一つである、qSW5遺伝子を発見しました。

お米の粒の形や大きさは、イネの収量に影響するため、農業にとって重要な形質ですが、どのような遺伝子がお米の粒の形や大きさを決めているかは今まで殆ど知見がありませんでした。今回、お米の粒の幅の決定に関与するqSW5遺伝子を世界で初めて発見し、qSW5が野生イネの栽培化の過程で遺伝子機能を失うことで、日本のお米(ジャポニカイネ)の外側のもみのサイズが約2割増大し、その結果、ジャポニカイネの米粒の幅が大きくなったことを明らかにしました。

さらに、様々な地域で栽培されていた約200種の古いイネ品種でqSW5の機能の有無等の遺伝子の変化を調査した結果、従来の学説(長江起源説)とは大きく異なり、ジャポニカイネの起源は東南アジアで、そこから中国へ伝わり、そこで温帯ジャポニカイネが生まれたことを示す結果が得られました。

今後、qSW5遺伝子を利用することで、インディカイネの収量性の向上が期待されるとともに、イネの栽培化の進化の過程をDNAの変化から追跡出来ることを示しました。この成果は、2008年7月7日午前2時(日本時間)に、Nature Geneticsのonline版で公開されます。

この成果は、農林水産省からの受託研究である、「有用遺伝子活用のための植物(イネ)・動物ゲノム研究」(H16〜H17)、「ゲノム育種による効率的品種育成技術の開発」(H18〜H19)、「新農業展開ゲノムプロジェクト」(H20〜)で進められてきた研究からの成果です。
http://www.nias.affrc.go.jp/press/20080707/
69投稿者:777  投稿日:2010年03月10日(水) 20時31分11秒

オオカミと近縁、実はチャウチャウ 米でDNA比較


 シェパードよりもチャウチャウの方がオオカミと近い――米国の研究チームが犬と犬の祖先とされるオオカミで遺伝情報が刻まれたDNAを比較すると、こんな結果が出た。さらに日本原産の柴(しば)犬の方がオオカミに近かった。21日発行の米科学誌サイエンスに発表する。


 フレッド・ハッチンソンがん研究センターなどのチームが、犬の純血種を管理するアメリカンケネルクラブに登録された85種414頭とオオカミのDNAを比べた。


 その結果、オオカミと外見が比較的似ているジャーマンシェパードはかなり遠縁で、むしろ柴犬や、チャウチャウ、秋田犬の方がオオカミに近いことが判明。この三つの中でチャウチャウと秋田犬が互いに近縁だった。


 約5000年前のエジプトで飼われていたとされ、古いと考えられていたイビザンハウンドやファラオハウンドは、今回の分析では、過去数百年の間に登場したとされた。


 チームは、がんや心臓病などにかかわる遺伝子の研究を目的にする。特定の犬種が発病しやすい病気が350ほど見つかっており、「今回の分類をもとに病気の関連遺伝子を調べれば人の病気の研究モデルになる」という。


http://www.ranjo.jp/konwaku/030324.htm



参考までに、人種差では 99.99%DNAは同じそうです(人とチンパンジーの場合は 99.5%〜99.9%だそうです)

http://q.hatena.ne.jp/1096877498
70投稿者:777  投稿日:2010年03月26日(金) 12時49分38秒

あのあたり(メソポタミア)は、アラビア人の他に、アッシリア、アルメニア、トルクメン、クルド等の少数民族が多数おり、人種、民族、宗教が入り乱れています。

私のいた職場にはアッシリア人、アルメニア人が多かったのですが、みなアッシリア人はカソリック、 アルメニア人はオーソドックス(どの正教かは不詳)だと言ってました。
アッシリア人というのは 北部メソポタミアの古代アッシリア帝国(前12世紀〜前7世紀頃)の末裔であることは間違いないと思います。
古代アッシリア帝国の遺物(ニムルド、ニネベ遺跡等)は今日 大英博物館で無料公開されています。
現在のアッシリア人もここに陳列されているレリーフの絵のように彫の深い白人系の顔立ちをしています。
この時代はキリスト以前の時代ですが、アッシリア人はその後キリスト教化したようです。
ヨルダンには古代ローマ帝国の遺跡(ジェラシ遺跡等)もあるので、この時期にカソリック化したのではないでしょうか。

アルメニア人は現在のアルメニア共和国人と同系同類と思われます。

バグダッドにはキリスト教各派の教会がありましたが、ネストリウス派については、現地の人は知らないようで、教会もないようでしたが(ただし正確には不詳)。
聖徳太子が「馬宿」の皇子と呼ばれたのはシナに伝わった景教(ネストリウス派)のキリスト生誕の話を拝借したらしいし、唐時代には景教寺院もあったらしいのですが、ネストリウス派宗徒というのは世界に現存するのでしょうか。

イラクには所々ポツンと得体の知れないキリスト教徒の村があるのですが、ここの住民はアッシリアンやアルメニアンのような白人系という感じではなく、ひょとしたらこれらが ネストリウス派かもしれませんね。
もっと詳しく聞いておけばよかった。

それから 少数民族としてはジプシーの村もありましたけど、ジプシーの宗教ってなんなのでしょうね。わかりますか。
スペインのジプシーはもはやカソリック教化されてしまっているようですが。



私が少数民族問題の本を読んだ限りでも,アッシリア人=シリア人(民族名.シリアの国民と言う意味ではない)です.シリア語は,ランダムハウス英和大辞典では,アラム語の一派ですし,現代アッシリア語の本でも,現代のアッシリア人が古代のアッシリア人の直系であるかどうかは不明とされているようです.
また,“みなアッシリア人はカソリック、アルメニア人はオーソドックス(どの正教かは不詳)だと言ってました。”ですが,下のも書きましたように,シリア教会の他,ローマ法王の権威を認めるカルデア教会があったはずです.

アルメニア人が Orthodox と言うのは私には理解不能です.
私の理解では,東方教会 = Orthodox ではなく,アルメニア教会(確か,グレゴリウス派と言ったはず)は単性論のはずで,それを Orthodox とは言わないという認識のせいですけど…
どのような受け答えをされたのでしょうか?
ニケア・コンスタンティノープル信条では三位一体説ではありませんでした?

http://snsi-j.jp/boards/sample2/1.html
71投稿者:777  投稿日:2010年03月26日(金) 12時51分49秒

[77] 「モンゴロイド」と「モンゴル系」は意味が別。 投稿者:まむし直 [関東] 投稿日:2000年10月20日 (金) 15時56分

#Angelix(共同管理人)さま
>月氏のやつは,確か,どこかの百科事典の世界史編から,

月氏については、たしかに古い本をみるとチベット系、トルコ系、モンゴル系など諸説あって正体不明な感じですが最近ではイラン系という説が有力で、ほぼ落ち着いていると思います。

>釈迦は忘れましたけど,

釈迦族というのはブッダの出身種族をいう場合とサカ(=「塞」)族をいう場合と2つの用法があり、両者の関係については確証がなく学者はむやみに関係づけたがらないのですがなにか関係はあるのでしょう。要するに前者は後者の一分支ということだと思います。
まあぼくもよくわかりませんが。

サカ(=「塞」)族は広義のスキタイ人の同類と思われ(言語的に)イラン系とされていたはずです。たしか。
ブッダの出身種族はモンゴロイドらしいので、かつて諸説が混迷してたのでしょうが、人種系統と言語系統がかならず一致するというのはナチス的先入観にすぎません。
狭義のスキタイ人も、その中の「王族スキタイ」というのはアルタイ語系だという説もあるくらいだし、遊牧民の帝国はいろいろな種族を取り込みながら発展していくのでサカ族のような広範囲に展開した種族ならさまざまの変種を抱え込んでいてもなんの不思議もないと思います。

>ヤクートは,確か,旺文社の百科事典にトルコ族として出ていたなあという記憶からです.

そうです。たしかにヤクートは(言語は)トルコ系でした。すみません。
ただし人種的にはツングース系(北方モンゴロイド)なので、なんとなくツングースっぽいイメージを漠然ともっていたもので間違えてしまいました。

>アフガンのハザール族というのは,同じくそのモンゴル族の項目からとってきました.

それはぼくは初耳だったのでちょっと調べてみました。
旺文社の百科事典はみつかりませんでしたので平凡社など複数のを使いました。
それによるとハザール(Khazar これは人種、言語ともにトルコ系)ではなく「ハザーラHazara」です。アフガニスタンの中央高地に住み、言語はタジク族と同様のイラン系ですが人種的にはモンゴロイド。(なので、いわゆるモンゴル系ということではないようですね)

これとはべつにアフガニスタンには言語がモンゴル系という人々では、モゴール族というのがいて、これはモンゴル帝国の時代に移ってきた人々の子孫で古いモンゴル語を残しているとのこと。統計年代は覚えてませんがアフガニスタンの人口の3%だけでかなりの少数派でした。

http://snsi-j.jp/boards/sample2/1.html
72投稿者:777  投稿日:2010年03月26日(金) 12時59分53秒

[26] 人種系統と白匈奴、ハンガリー 投稿者:まむし。 [関東] 投稿日:2000/07/16(Sun) 07:55

匈奴は帝国なので、いろんな人種の連合体ですが支配層(中心部族)はもともとコーカソイド、トルコ系(言語の話じゃなく人種が)。
アッティラのフン族はモンゴロイドだから人種的には別系統です。
白匈奴(白フン、エフタル)っつーのは、フン族がローマ帝国に侵入してた頃、インドに侵入してた連中で、当時ヨーロッパからインドにまたがる遊牧民の帝国があったという推測もあるようですね。
その場合アッティラは皇帝ではなく西部の王ということになるのかな?

最近の研究によると“白匈奴というのは、中央アジアの「悦般」の後身で、「悦般」というのは、モンゴルから西遷してきた北匈奴の後身”ということみたいですね。
白匈奴はその後、西突厥に合流して消えてしまいましたが、なんとかという少数民族として西北インドに残っているらしいです。

というわけで、ハンガリー方面のフン族とは関係ないのではないでしょうか。

こういうと匈奴はみんな中央アジアやインド方面にいっちゃったみたいに聞こえるかも知れませんが、それは反乱貴族側の「北匈奴」で、単于側の「南匈奴」(劉氏)はシナ本土に移動して、五胡の乱を起こしてます。
今でも山西省に多い劉氏はこの子孫といわれています。

ハンガリーは、マジャール人以前はいろんな遊牧民が入り込んでいて系統よくわからないですね。教科書的にはマジャール人以前はあんまり関係ないような書き振りが多いですが、国民意識としてはフン族ともしっかりつながってるみたいですけど。
http://snsi-j.jp/boards/sample2/1.html
73投稿者:777  投稿日:2010年03月26日(金) 17時18分09秒
4万8000年前のシベリアに未知の人類・現生人類と共存かhttp://www.asyura2.com/09/reki02/msg/335.html

現生人類やネアンデルタール人の祖先と100万年前に分かれたとみられる未知の人類(デニソワ人)が、ロシア南部に3万〜4万8000年前に生存していたことを、ドイツのマックスプランク研究所などの国際チームが明らかにした。

現生人類やネアンデルタール人と共存していた可能性が高いという。25日付英科学誌ネイチャー電子版に発表する。

研究チームは、シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞穴の旧石器時代の遺跡で2008年に発見された小指の骨を分析。

30ミリ・グラムの骨粉から取り出した細胞内の小器官ミトコンドリアのDNAを解読した。

現生人類などのDNAと比較したところ、ネアンデルタール人と現生人類が分岐した約47万年前の2倍も古い約100万年前に分かれた人類であると推定された。

デニソワ人は多様な原人がいた時代に出現したとみられるが、形態を比較できる化石は発見されていない。

人類はアフリカ起源で、約190万年前にアフリカを出た原人がジャワ原人や北京原人に進化した。

ネアンデルタール人などが続き、現生人類は約5万年前にアフリカを出て勢力を拡大したと考えられている。

国立科学博物館の馬場悠男(ひさお)名誉研究員の話「人類起源を考える上で、興味深い成果。世界の辺境には未知の人類がもっといた可能性もある」

(2010年3月25日 読売新聞)  

74投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時01分10秒

★スペイン人の3割はユダヤ系かアラブ系

紀元711年にジブラルタル海峡を越えて北アフリカから
イベリア半島に侵入してきたアラブ人。既にそれより
以前からイベリア半島に居住していたユダヤ人。

40万人いたと見られるユダヤ人は1492年、カトリック両王の
国土回復により16万人がイベリア半島から追放され、
アラブ人もその多くが1609年に追放されたが、その子孫は
現在のスペイン人の約3割を占めることがDNA解析により判明した。

イギリス、スペイン、ポルトガルの学者らによる共同調査研究によると、
イベリア半島及びバレアレス諸島の18市町村の男性1,140人の染色体情報を
分析した結果、20%はユダヤ人、11%はアラブ人の末裔だった。

カトリック王朝による追放・排斥にもかかわらず、多くのユダヤ人や
アラブ人が自主的あるいは強制的に改宗してイベリア半島に留まった
ことが分かる。そうした末裔の分布を見ると、南北差よりもむしろ
東西差が顕著で、アラブ人の末裔はピレネー山脈地方では0%、
バレンシアやアンダルシアでもわずかだが、ガリシアでは20%、
カスティーリャ北西部では22%に及ぶ。

1609年にフェリペ3世はバレンシアやアンダルシアのアラブ人の
ゲットーは壊滅させたが、ガリシアなどの地方に散在し同化した
アラブ人までは手が回らなかったらしい。一方、ユダヤ人の末裔は
ピレネー地方、カスティーリャ北東部、カタルーニャ地方をのぞいて
ほぼ均一の割合で分布している。この研究は「American Journal of
Human Genetics」で発表。
75投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時06分46秒

遺伝子解析の結果、日本人のDNAには、ユダヤ人を含む大民族グループであるセム系に特徴的な遺伝子はいっさい見つかっていません。
ですから、日本人がユダヤ人の末裔である可能性はまったくあり得ません。

ちなみに日本人の系統は、北方モンゴロイド(モンゴル、北中国、朝鮮、シベリア、アメリカ原住民の主要な系統)と南方モンゴロイド(東南アジアの主要な系統)の混血であることは確実です。
北方モンゴロイドや南方モンゴロイドの日本以外の系統には、稀にセム系の遺伝子が見られるようです。
ですから、ユダヤ人の一部は東に移動したものの、日本に到達する前に混血によって消えてしまった、という辺りが真実なんじゃないかと思います。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1023790300
76投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時10分34秒

2000年5月9日(火) 11時15分
<遺伝子>ユダヤとアラブの先祖は同じ 国際研究グループ(毎日新聞)


  【ワシントン8日斗ケ沢秀俊】イスラエルとアラブとの対立が続いているが、遺伝子上はユダヤ人はアラブ人と「兄弟」とも言える近い関係にあることが欧米とイスラエルの国際研究グループの調査で判明し、9日付の米科学アカデミー誌に発表される。

 米ニューヨーク大医学校やイスラエルのテルアビブ大などのグループは、7地域のユダヤ人を含む世界29地域の男性1371人を対象に、男性の性染色体であるY染色体の塩基配列を調べた。

 調査の結果、ユダヤ人はパレスチナ、シリア、レバノンなど中東のアラブ人と祖先が共通で、塩基配列に同じ特徴を持っていた。ユダヤ人とアラブ人は、中東以外の非ユダヤ人とは塩基配列の違いが大きく、遺伝子上は離れた関係にあった。ユダヤ人は地域ごとの塩基配列の違いが少なく、他民族との混血があまりなかったことも分かった。

 研究グループは「ユダヤ人とアラブ人はみな、古代ヘブライ民族の始祖アブラハムの子供たちであり、いずれも4000年以上にわたって中東の遺伝的な特徴を保っている」と分析している。

[毎日新聞5月9日] ( 2000-05-09-10:20 )



77投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時17分22秒

77 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/11(金) 03:57

「イスラエル民族」と「ユダヤ人」の違いを正確に知っているだろうか?

「イスラエル民族」とは厳密には「12支族で構成された連合集団」を指しており、そのうちの1支族である「ユダ族」を中心とした末縺が後に「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのである。

よって、「イスラエル民族」と「ユダヤ人」とをゴチャ混ぜにすることはできないし、「イスラエル民族」を「 ユダヤ人」としてひとくくりに総称することもできない。

「ユダヤ人」という言葉は、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語だと言われている。

●紀元前2000年、古代バビロニア王国が隆盛を誇っていた時代、
メソポタミア地方に一つの家族が住んでいた。家族の長の名はアブラムで、彼は広大なメソポタミアの平原を羊とともに移動しながら暮らしていた。 そのため地元のメソポタミアの人々は、彼らのことを「移動する人々」 という意味で「ハビル人」と呼んだ。

 後に、彼らはユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動したため、「川の対岸からやって来た」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる。

●アブラムは後に神からの勅命を受け、アブラムをアブラハムに改名。
彼はイシュマエルとイサクという2人の息子をもうけ、イシュマエルは「アラブ民族の父」となる。

 一方、イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となる。

●このヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、
生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族・・・という支族が誕生した。

 ただし、レビ族だけは祭睚を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とする。

78投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時19分20秒

28 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/12(月) 15:17

失われた十部族っていうけど、北イスラエル王国滅亡の際に連行された
のはさほどでもない。むしろユダ王国の滅亡の際に連行された数のほう
が多い。

だから可能性からいえば十部族ではなく、ユダ王国の末裔。

ただ残念ながらユダ王国の末裔は失われずにバビロニアを拠点として
ずっと活動を続けていた。



60 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/18(火) 23:55

たしかに旧約聖書に出てくる古代イスラエル人の宗教儀礼の中には
神道の儀礼と似たものもあるけど、それは古代イスラエル人が
周辺の農耕民族の宗教儀礼を自分達の宗教儀礼に採り入れられたから。
だからそういう宗教儀礼は調べてみると、日本ばかりではなくアジア各地にも類似のものが存在するのがわかる。

79投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時40分14秒

日本人のDNAと日本人のルーツ (1)

世界の人々は35人の母親から生まれてきた子供達です。

35人の母親達もアフリカ大陸に住んでいた1人の偉大なる母から生まれています。

人類は35通りの民族的DNAから構成されています。

ほとんどの民族は35種の内、5種前後を保有しているに過ぎません。

しかし、大和民族は16種を保有する多様性な民族で有ります。

簡単に言うと混血もいいとこなんですよ。

おそらく、世界一の混血民族が大和民族なんですね。

縄文人は3万年前ぐらいから日本に渡来してきました。

しかし、縄文人が渡来する以前から日本には人が住んでいました。

約12万年前の石器が発見されています。

縄文人は僅か3万年前にやってきた新参者なんですよ。

その新参者の縄文人が日本を支配した。

なぜ?支配したと分かるのか?それはY染色体遺伝子を辿ることで明白になります。

Y染色体遺伝子は父親から男の子へ受け継がれる遺伝子です。

つまり日本における支配階級のDNAは何か分かるのです。
80投稿者:777  投稿日:2010年03月27日(土) 11時40分24秒

縄文人の保有するD系統YAP型が40%から50%も現在日本人に保有している。

これが縄文人が日本を支配していた証明になると思われます。

アイヌの人はD系が80%も保有しているそうです。限りなく縄文人に近いと思います。

しかし、アイヌより先に日本に住んでいた民族があるのをご存知でしょうか?

その名は。。。




コロポックル。。

このコロポックルこそが元祖日本人だったのです!キッパリ。。

どんな顔?いやー、見たこと無いです。けど、ナインティーナインの岡村さん激似説でどうでしょうか?たぶん、いやいや、絶対に岡村さんがコロポックル。

あっ!ハーフじゃないかな?

日本人は直に縄文人顔とか弥生人顔とか言いますが。。縄文人より先住民であるコロポックルを完全に忘れていると思います。本当に!コロポックルに失礼ですよ!

ですから。。縄文顔、弥生顔そして。。コロポックル顔。。この三つが日本人の顔なんですよ。

一寸法師(少彦名命)がコロポックルだとも言われています。

最後にコロボックルに愛を!!
http://robasan.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/dna-7ca9.html

81投稿者:777  投稿日:2010年03月31日(水) 20時23分05秒

新種の人類化石発見 シベリア南部の洞穴

ロシア・シベリア南部の洞穴から約4万年前の人類の指の骨片が見つかり、
DNA解析の結果、現生人類や絶滅したネアンデルタール人の共通の祖先から
約104万年前に枝分かれして独自に進化した新種の人類であることが分かったと、
ドイツなどの研究チームが25日付英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

人類進化の歴史の多彩さを示す成果だという。
現在の地球には現生人類のホモサピエンスしかいないが、
約4万年前ごろには、現生人類やネアンデルタール人、
2003年にインドネシアで化石が見つかった小型人類、
今回の新種人類と、さまざまな種の人類が同時に生きていたことになる。

発表したのはドイツのマックス・プランク進化人類学研究所などのチーム。
指の骨片の化石は08年、シベリア南部に位置するアルタイ山脈のデニソワ洞穴の、
4万8千〜3万年前の地層から発掘された。

人類の祖先はアフリカを起源とし、約180万年前には原人がユーラシア大陸に進出。
47万年前ごろにネアンデルタール人の祖先が現れ、
さらに現生人類は5〜6万年前に世界中に広がったとされている。
今回の人類は出現が100万年以上前と原人に相当しながら、約4万年前まで続いていたことも特徴という。

2010/03/25 03:02 【共同通信】
82投稿者:777  投稿日:2010年08月13日(金) 15時49分15秒

遺伝子コード部分から割り出されるグループはハプログループというのだそうだが、D-ループでは、異なるハプログループに属する塩基配列同士が偶然同じものになることがあるそうだ。特に短い塩基配列を元に比較するとその傾向が強いという。ヨーロッパにはアジア系の民族も次々に移動してきた。しかしミトコンドリアには残るが、現地での混血は、少数派の形質を多数派の形質に作り替えてしまう。4-5代もすれば、全く多数派と同じ顔同じ皮膚色同じ身長になって行く。そこの言葉をはじめとする文化は征服民族のものが残る。文化人類民族学は基準とする物差しが大切だ。
解析は正確になったが、結論がサイクス本と大幅に変わったわけではない。新人のご先祖様はアフリカにいた。進化論のダーウィンが推測したとおりであった。彼は高等類人猿がアフリカに生息しているという事実から推論したと云うが、たいした眼力である。2万人ほどのグループだという。どんな方法でこの数字が出てくるのか興味深いが書いてない。出アフリカは2回あったという。東アフリカから、氷河期のために現代よりも70mも海面が下がったのを利用して紅海の南端を渉った。6-7万年前だ。まずはアジアへ出ていった150人ほどのグル−プ(ハプログループM)があった。この人数の推定理由も書いてない。次のグループ(ハプログループN)はアジアとヨーロッパに末裔が見出されている。新人は新天地で旧人と出会う。ところが例えばネアンデルタール人のDNAの痕跡は、ヨーロッパ人の誰も持っていない。共生期間は何万年にも及ぶのだから、遺伝学的に混血が不可能であったのだ。サイクスは、旧人と新人は馬とロバの関係ではなかったかと言っていた。

インドでは初期に南アジアに到達した人類集団が、他からの遺伝的な影響をあまり受けずに独自の集団を形成していったという。ヨーロッパと同系の語族だし、容貌もあちら風なのでついヨーロッパ人に近い人種と考え勝ちだが、ミトコンドリアDNA的にはアジア人なのだ。

東アジアは東南アジア〜中国南部グループとバイカル湖を中心とした北アジアに分布するグループの2つに大別出来る。

中間の中国は複雑で、漢民族集団の地域別の近縁関係は東西南北に数グループに大別出来る。

文化的には一つの漢民族でも、人類学上はとても一つと言えないと云う。

日本人は朝鮮人、北方漢民族(遼東半島、山東半島)に類縁性が認められる。

アメリカ大陸の先住民はベーリング海峡が陸橋で繋がっていた氷河期に続々北アジアから渉ってきた。アルタイ山脈・トゥヴァ・バイカル湖周辺と言ったモンゴルの北方に隣接する地帯に近縁関係がある。彼等は縄文人そっくりなのだ。

オーストラリア、ニューギニアの先住民は、アフリカを出てからそう離れていない時代にその地に到達して以後、あまり混血せずに今日に至った。氷河期が終わると数々の海峡が生じて、往来を阻んだのであろう。

インドシナ半島に至る最初の経路はインド回りらしい。でもインドはDNA種の独立性が高く、ヨーロッパのように怒濤のような民族大移動は起こらなかったと推定される。ヨーロッパに渡った人類は「イヴの七人(今なら12人という)の娘たち」のあとを継いで今日に至る。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/HOMPG920.HTM
83投稿者:777  投稿日:2010年08月17日(火) 22時43分51秒

縄文の視点からみた台湾と朝鮮
From tokumaru
縄文専門家に台湾と朝鮮の話を伺いました。短いですが、ご参考まで


台湾は旧石器時代から、スンダ文明圏にありました。台湾はスンダ
原住民の国です。海底には神殿遺跡があります。三百年前大陸から
中華大陸から三百人ほどわたってきて、さんざ悪さをしました。
そして将介石が台湾に逃げてきて占領しました。独立派はいれなく
なりした(今は大丈夫になりました)。また、台湾では縄文土器が発
掘されていることです。是非、原住民資料展示館、及び考古博物館
に足を運び館の人と話すとよいです。


ソウルの韓国国立博物館にも縄文土器が展示してますよ。九州の縄
文土器と同じだとちゃんと解説してあります。また、ピョンヤンの
国立博物館にも7千年前の縄文土器が展示されていた。朝鮮半島も
縄文文化圏だったのです。台湾の博物館で特別に発掘土器を見せて
貰ったのですが、日本語を話す館長は、それら土器を縄文土器と言
っていました。沖縄では縄文土器がないとされていたのですが、空
港工事で縄文土器がでてきたので、歴史年表が書き換えられていま
す。
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220813.htm
84投稿者:携帯ライブチャット  投稿日:2010年10月14日(木) 08時13分00秒
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85投稿者:777  投稿日:2010年10月27日(水) 08時45分26秒

アフリカ以外で最古の現生人類を発見

中国の洞窟で見つかった早期現生人類のアゴの骨と臼歯。
(Diagram courtesy Institute of Vertebrate Paleontology and Paleoanthropology Chinese Academy of Sciences)
 中国南部で驚くべき化石人骨(アゴの骨)が見つかった。現生人類がアフリカを出た時期が、定説より大幅にさかのぼる可能性がある。

 2007年、広西チワン族自治区の崇左市(すうさし)のジーレン(Zhiren)洞窟で人骨は発見された。下顎骨は先端が突出しており、はっきりと現生人類の特徴を備えている。しかし注目すべきはその年代だ。中国でこれまで最古とされてきた現生人類(ホモ・サピエンス)の化石よりさらに6万年もさかのぼるという。

 研究共著者でアメリカ、ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の人類学者エリック・トリンカウス氏は、「約10万年前の化石で、アフリカ以外で発見された最古の現生人類だ」とコメントしている。

 これまで、ホモ・サピエンスの出アフリカは約6万年前が定説だった。その後、世界中で初期人類ホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)などと置き換わるのに、それほど時間はかからなかったと考えられてきた。

 中国で見つかった早期現生人類の化石は、人類の移動の歴史を大幅に塗り替えるかもしれない。また中国の現生人類は5〜6万年間も別のヒト属と混在し、異種交配が行われていた可能性さえある。

 加えて、解剖学的に「現生」に属する人類は、人間らしい活動を始めるかなり以前に中国へたどり着いていた可能性も示唆されている。例えば、物や人、出来事をビーズや描線などで表現する「表象的思考」は人間の特性であるが、中国の考古学的資料でその特性が確認できるのは約3万年前だ。

 ハワイ大学の人類学者クリストファー・バエ(Christopher Bae)氏は、今回の研究を受けて次のようにコメントしている。「出アフリカの時期に関するこれまでの定説は、主に遺伝学的証拠に基づいている。新発見のアゴの骨はその定説に別の側面から挑戦状を叩きつけた。年代がはっきりしており、ほぼ現生人類と見て間違いない証拠も備えている」。

 一方で、アメリカにあるウィスコンシン大学マディソン校の人類学者ジョン・ホークス氏は次のような見解を示している。「中国の洞窟からはアゴの骨と3本の臼歯しか見つかっていない。しかも現時点では、ネアンデルタール人の骨である可能性も残されている。人類の移動の歴史に関する再考の必要性は、今後の展開次第だろう。個人的には研究チームの主張に賛成だが、もっと証拠が欲しい。化石からDNAを抽出できればいいのだが」。

 研究の詳細は、「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌オンライン版に10月25日付けで掲載されている。

Rachel Kaufman for National Geographic News

86投稿者:777  投稿日:2010年10月27日(水) 08時47分11秒

人類がアフリカから旅立つことになったきっかけは、気候変動ではなく技術革新だったとする新しい研究が発表された。



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友人に教える
 初期のホモ・サピエンス(現生人類)の移動時期と、社会的発展や道具を作る技術の革新があった時期とが一致していることが明らかになったという。一方、アフリカの降雨量の変化といった気候の変動要因は、従来考えられていたほど人類の移動と密接に関連していなかったことが分かった。

 研究チームのリーダーでオーストラリアにあるウーロンゴン大学のゼノビア・ジェーコブス氏は、「人類が大移動した時期は技術的な進歩がみられた時期に重なっている。技術の向上が移動を引き起こしたと推測できる」と語る。

 われわれ現生人類は、およそ20万〜15万年前にアフリカに居住していたと考えられている。近年の研究によると、79万年前には自然発生した火を利用していた可能性があるという。その後、約10万年前には自ら火を起こすようになり、6万年前には火起こしや道具の製作技術に加え、洗練されたコミュニケーション技術も発展していたようだ。これらの時期と、アフリカから人類が移動し始めた時期が重なっていることは、遺伝子学的な研究結果からも示唆されている。

 同時期にはスティル・ベイ文化、ハウイソンズ・プールト文化という、道具の利用を伴った2大文化が生じており、ジェーコブス氏らのチームは南アフリカ共和国の9つの遺跡に遺されていた両文化の出土品を調査した。出土品には両面加工の尖頭器をはじめ、装飾的なモチーフや記号、貝殻のネックレスや個人の持ち物と思われる道具などがあったという。

 さらに一連の遺跡自体の年代を測定した結果、1つの気候や環境にはとどまらないことが判明した。「地域的な環境変化が影響した可能性は残るが、気候と人類の移動の間に特別な相関関係は見られなかった」と同氏は述べている。

 今回の研究では、急激な技術革新の波が突然訪れて、1000〜5000年という比較的短期間のうちに姿を消していたとする説も裏付けられた。だが、こうした技術革新が急速に発展した理由や過程については依然として不明だという。

 アリゾナ州立大学人類起源研究所の古人類学者カーティス・マレアン氏は、この点について次のように話している。「極めて短期間に技術が発展したのは非常に興味深いことだ。アフリカに暮らしていた初期の現生人類は、高度に洗練された効率的なデザインの道具を発明し、急速に広める力を持っていたらしい。同時期にはネアンデルタール人も存在し、現生人類の拡散に伴って姿を消しているが、その理由も道具の発明と伝播の力の差にあったのかもしれない」。

 初期の人類がアフリカから拡散したときのルートについては、これまでナイル渓谷からシナイ半島経由で東地中海に出たとする北東ルートや、エチオピアから紅海に出た南東ルートが提唱されていた。これについても、新たにサハラ砂漠を北上するルートを示唆する研究が先週、発表されている。

 この研究では、衛星データと化石土壌の地球科学的な分析に基づいて、太古の昔にサハラ砂漠のリビア付近から地中海に出る川の流れが存在した可能性が示された。かつてこの一帯が草原の広がるサバンナで、そこから中東に道が開けたと推測できるという。

Photograph courtesy Chris Henshilwood

87投稿者:777  投稿日:2010年10月27日(水) 08時51分30秒

エチオピアで発見された精巧な石器の新研究によると、現生人類は従来の説よりも8万年早く進化していた可能性があるという。

 この石器はエチオピアのリフト・バレーにあるガデモッタ(Gademotta)遺跡で1970年代に発掘されていたが、今回、新しい年代測定法で調べたところ、約19万5000年前の最古のホモ・サピエンスの骨よりもかなり古いものであることがわかった。

 研究チームはアルゴン-アルゴン年代測定法(アルゴン元素の異なる同位体を比較する手法)を使用し、ガデモッタで石器が埋まっていた火山灰層の年代が少なくとも27万6000年前にさかのぼると判定した。

 共同研究者でバークレー地質年代学センターのポール・レンネ所長によると、発掘された石器の多くは小さな刃で、その作成手法には複雑な認知能力と器用な手先が必要だと考えられる。

 一部の考古学者たちは、ここで発掘された石器やほかの場所で発見された同様の道具は、現生人類であるホモ・サピエンスの出現に関係付けられるものだと考えている。

 共同研究者でカリフォルニア大学バークレー校のリア・モルガン氏は、「われわれ人類はこれまで考えていたよりも早い時期に技術的な進化を遂げていたようだ」と話す。ガデモッタは近くのズワイ湖から新鮮な水が手に入り、黒曜石と呼ばれる硬く黒い火山ガラスの産出地も近いため、人間が居住するには魅力的な場所だった。「黒曜石ガラスは結晶構造が少ないため、道具を作るのに最適な原料の1つだ」とモルガン氏は説明する。

 石器時代の技術は世界の各地で約30万年前に、アシュール文化の大きく粗雑な手斧やつるはしから、中石器時代のより精巧で多様な槍先や手斧へと、飛躍的に発展したと考えられている。

 アルゴンの年代測定に基づくと、ガデモッタの北東にあるアファ地域のヘルトなどエチオピアのほかの場所では、この発展が約16万年前に起きており、ガデモッタよりかなり遅かった。考古学者の間では技術は段階的に移行したという推論があるが、幅のある年代はそれを裏付けるものだ。

「現代に例えると、雄牛の引く馬車から自動車への移行のようなものだ。北アメリカやヨーロッパ北部では実質的に移行が完全に終わった頃、発展途上国ではまだ移行が進行していた」とレンネ氏は話す(同氏は今回のガデモッタの調査でナショナル ジオグラフィック協会の研究・探検委員会から助成金を受けている)。

 モルガン氏は、ガデモッタに技術的発展が早く訪れたのは黒曜石が手に入りやすかったためではないかと推測している。

 ガデモッタでは骨が発見されていないため、発掘された高度な石器をだれが作ったのか調べるのは難しい。ホモサピエンスだと信じる考古学者もいれば、必要な知能や手先の器用さを持っていたのは他種の人類だと考える考古学者もいる。

 いずれにしろ、今回判明した年代をもとに、考古学的記録上の大きなギャップが埋められそうだ。ニューヨーク大学の人類学者クリスチャン・トライオン教授は、「ガデモッタの新しい年代は、人類の進化において行動様式の重要な変化が起きた時期を解明する手掛かりとなる」と述べている。

Photographs courtesy Paul Renne and Leah Morgan

88投稿者:777  投稿日:2011年02月09日(水) 11時26分56秒
人類の脳、3万年で1割縮小 進化か退化か?

* 2011年02月07日 14:12 発信地:ワシントンD.C./米国
 
ニューヨーク(New York)のサウス・ストリート・シーポートの「BODIES...The Exhibition(人体展)」に展示される人体標本(2011年2月2日撮影)。(c)AFP/TIMOTHY A. CLARY
【2月7日 AFP】人類の脳の大きさが過去3万年で縮小しているとの研究結果が米科学誌ディスカバー(Discover)に発表された。科学者たちは、これは知能が低下しているのではなく脳がより引き締まり効率的になった「進化」ではないかと主張する一方、戸惑いも見せている。

 欧州、中東、アジアで発掘された頭がい骨を測定した結果、現生人類「ホモ・サピエンス(Homo sapiens)」の脳の平均サイズは、3万年前と比べて約10%縮小し、1500立方センチメートルから1359立方センチになっていた。縮小はテニスボール1個分に相当する。

■「生存の危機」なくなったのが縮小の原因か?

 3万年前ごろに原因不明の絶滅をした現生人類の近縁種ネアンデルタール人は、現生人類よりもはるかに大きな脳を持っていた。また、1万7000年ほど前にラスコー洞窟(どうくつ)の壁画を残したホモ・サピエンスに属するクロマニヨン人の脳も、現代の人類の脳よりも大きかった。過酷な環境で生きていくために、大きな脳が必要だった、と米ミズーリ大学(University of Missouri)の心理学者デビッド・ギアリー(David Geary)教授はみている。

 ギアリー教授ら研究チームは、人口密度の増加に従って脳が縮小したことに着目。人口密度が増加すると、人びとが互いに近くで暮らすようになり、集団間・階層間での交流が増えるとの仮定のもと、「人口密度増加は社会の複雑さが高まることを示している」と考えた。

「複雑な社会が誕生すると、ヒトは生存するために知能を使う必要がなくなったので、脳が縮小したのではないか」と、ギアリー氏はAFPに語っている。

■脳の大きさと知性に関連性はあるか

 一方、人類の脳が小さくなったことは知性の低下を意味しない、と米デューク大学(Duke University)の人類学者、ブライアン・ヘア(Brian Hare)准教授は語る。むしろ、別種の、より洗練された知性を身につけたのだという。

 ヘア准教授は、同様の現象が野生動物と飼育動物との間にもみられると指摘。たとえばハスキー犬はオオカミよりも脳が小さいが、ハスキーはまるで人間の子どものように人びとの会話や身振りを理解でき、つまり、より洗練された知性を持っている、とヘア氏は語る。

「オオカミはイヌよりもはるかに大きな脳を持っているが、イヌの方が(オオカミより)はるかに洗練されていて知性的で柔軟だ。つまり、知性は脳の大きさと関連性があまりないといえる」とヘア氏は指摘した。(c)AFP/Jean-Louis Santini

http://www.asyura2.com/09/nature4/msg/578.html
89投稿者:5  投稿日:2011年02月12日(土) 23時23分22秒
黒人にも、黄色人にも、金髪は理論的にありえます。
通常は、色の黒いほうが優勢遺伝ですから、現れることは少ないのですが、両親とも劣勢遺伝子を持っていれば、1/4の確率で現れます。
オーストラリアやブラジルにはいると聞いたことがあります。
黄色人種の場合は、もつと複雑です。
黄色人種という人種は本来ありません。
モンゴロイド・アウストラロイド・コーカソイドです。
白人は、コーカソイドです。
つまり、白人のコーカソイドと、黄色人のコーカソイドがいます。
黄色人のコーカソイドは、トルコ人、アラビア人、イラン人、パキスタン人、インド人などです。
このうち、トルコ人、シリア人などには、しばしば金髪の人が生まれます。ヨーロッパに近い環境にあるからだと思います。
モンゴロイドやアウストラロイドに金髪の人が生まれることは、たまたまの劣勢遺伝が現れた場合以外ありません。
(ロシアなどで、今後金髪のモンゴロイドなどが現れるかもしれませんが)

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa1265954.html
90投稿者:777  投稿日:2011年02月12日(土) 23時30分19秒
中央アジアから北西インドにおそらく相当の数が移動してきたサカ人(塞人)という存在が重要になってくる。異論もあるが、サカ人はおそらくギリシア人が記述したイラン系遊牧民族スキタイ人とおそらくおなじだろう。スキタイ人は紀元前1000年頃には現在のウクライナ、ロシア、中央アジアへまたがる草原地帯で活動をはじめていた。紀元前8世紀から7世紀にかけてアッシリアやメディアと戦い、さらにはシリア、パレスチナまで侵入している。スキタイ人がよく知られるのは、ヘロドトスがその大著『歴史』に詳しく描いたからにほかならない。

 スキタイ人が紀元前後に消えていったのに対し、サカ人は紀元前2世紀頃にバクトリアを破り、現パキスタンのタキシラやインドのグジャラートなどに勢力を伸ばし、その後インド西南まで進出し、西クシャトラパ国(西サトラプ国 西暦35−405年)を建設した。現在、インドのどこでも、たとえばレストランの壁にかかるカレンダーを見ると、今年は1930年などと書かれている。これは西クシャトラパ国が作った西暦79年3月22日に始まるサカ暦なのである。サカ暦と比べたら、我々が現在使っているグレゴリオ暦なんて、1582年に作られたばかりの新参の暦にすぎない。

 サカ人(スキタイ人)はおそらく典型的なコーカソイド、すなわちヨーロピアンの顔立ちをしていたのではなかろうか。中国新疆ウイグル自治区の各博物館は競って目玉としてミイラ(多くは3200年前)を展示しているが、その大半は「東地中海型ヨーロポイド」。ウルムチの博物館のミイラ展示室では、案内嬢がヨーロッパ人の団体客に対し、「彼ら(ミイラ)はヨーロッパ人です!」と叫び、客たちは「おおっ」と感嘆の声をあげていた。たしかにミイラは客のヨーロッパ人自身にそっくりだったのだ。

 新疆にもっとも多く住むのは、漢族をのぞくと、もちろんウイグル人である。私がシャーマンの治療儀礼を見たがゆえに(ただそれだけのために!)警察に拘束されてしまった東部のハミでは、印象として、漢族に顔立ちの近いウイグル人が目立った。いっぽう、新疆西南のホータンでは、ヨーロッパ人のような顔をたくさん見かけた。インターネット・カフェの店番をしていた女性があまりにも美しく、私は見とれてしまったが、その顔はブルガリア人のようだった(水木しげる翁とブルガリア東部の町を歩いたとき、あまりに美女だらけで圧倒されたことがある)。顔以上に、携帯でだれかと話をしているそのしぐさが英国人やアメリカ人のようだった。ホータンにはおそらく10世紀か11世紀頃までイラン系のサカ人が住み、その後ウイグル化(いいかえればトルコ化)していったが、サカ人的要素はまだまだ残っているのだ。

 新疆のサカ人の一部は、おそらくパミール高原のフンジュラブ峠を越えて現在のパキスタン北部に入ってきただろう。その最後の波は、これまたあまりはっきりしないが、6世紀から7世紀中葉にかけてインド中央部まで勢力を伸ばしたエフタル(白いフン族)ではないかと思う。ただしエフタルはトルコ系という説もある。

http://nierika.web.infoseek.co.jp/blond.htm
91投稿者:777  投稿日:2011年02月12日(土) 23時31分43秒
パキスタンの人々の大多数は黒髪の持ち主である。ところが北に行けば行くほど、茶髪や赤毛が目に入るようになる。まれに、この少女のような金髪を目撃することもあるのだ。

 
ギルギット近郊のカルガーの大仏。さらにカルガーの謎については
→ 「ギルギット写本とカルガーの大仏の謎」」
 ギルギット郊外のカルガーの磨崖仏を見た帰り、村の中の田舎道を歩いていたとき、私は三人のヨーロッパ人のような顔立ちの少女たちと出会った。そのうちのひとりはパキスタン北部で見かけたブロンドのなかでももっともきれいな金色をしていたので、思わずカメラを向けてしまった。

 彼女はごらんのようになにか中途半端にスカーフで髪を隠した。おそらく、イスラム世界の女として髪や顔は隠すべきだが、同時に自慢の金髪を見せたい気持ちがあり、このようなどっちつかずのポーズを取ることになったのだろう。

 ギルギット郊外で会った女の子たち
 その数日前、ギルギット南方のチラースでミニバスの中に坐っていた三十代の男が欧米人に見えた。白いラフな民族服を着ているにもかかわらず欧米人バックパッカーだと思い、英語で話しかけてしまった。茶髪にブラウンの瞳はこのあたりでは珍しくないが、顔立ちはピーター・バラカンそっくりだった。

 彼らはシナ語を話すシンと呼ばれる人々である。
92投稿者:ギャル動画  投稿日:2011年03月26日(土) 17時46分16秒
GTano}mx, www.galmovie.org, ギャル動画, http://www.galmovie.org/
93投稿者:奥様達のオナニー動画  投稿日:2011年03月31日(木) 05時09分21秒
V.uOlw/l, www.ex-navi.net, 奥様達のオナニー動画, http://www.ex-navi.net/60.html
94投稿者:アンドロイドライブチャット  投稿日:2011年04月13日(水) 21時08分01秒
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96投稿者:7  投稿日:2011年04月16日(土) 17時13分06秒

【NewsBrief】世界のすべての言語、アフリカの「祖語」にさかのぼる=調査

2011年 4月 15日 15:37 JST
 

 現在、世界に6000前後の言語が存在するが、そのすべてが5万−7万年前にアフリカに存在した初期の人類が話していた祖語から枝分かれしたものである可能性が最新の調査で明らかになった。

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110415_africa.jpg

各言語の音素の数

 14日発行の科学雑誌「サイエンス」が掲載したこの調査は、最初の話し言葉の発生や拡散の仕方についての解析に役立つ可能性がある。ニュージーランド・オークランド大学の進化心理学者、クウェンティン・アトキンソン氏は、アフリカを離れた最初の人類が、彼らの言葉 ─ つまり人類の祖語 ─ を広める基礎を築いたことを発見した。

 アトキンソン氏の調査は音素(語の音声を構成する最小の単位)に基づき、さらに集団遺伝学からも「創始者効果」として知られるアイデアを借用している。これは、大きな人口を持つグループから一部が枝分かれした場合、分派の間で遺伝的な多様性や複雑性が緩やかに消失するという理論だ。

 音素にも創始者効果が認められれば、現代の言語コミュニケーションはアフリカ大陸で発生し、その後、ほかの大陸に広がったとの考え方が裏付けられる、とアトキンソン氏は考えた。

 アトキンソン氏は世界の504の言語を調査し、最も音素が多い言語はアフリカ、最も少ない言語は南米と太平洋諸島で話されていることを突き止めた。

 さらに、世界における音素の使用パターンが、人類の遺伝的多様性のパターンを映していることも調査で明らかになった。人類が各地に居住し始めると、遺伝的多様性も失われた。

 現在、人類が定住して数千年になるサハラ砂漠以南のアフリカ地域で話される言語は、後年になって人類が住み始めた地域で話される言語よりも音素ははるかに多い。

記者: Gautam Naik

http://www.asyura2.com/09/nature4/msg/610.html
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102投稿者:4  投稿日:2011年05月31日(火) 21時49分00秒

2008年04月25日 10時45分00秒
人類は7万年前に絶滅寸前、全世界でわずか2000人


スタンフォード大学の研究者による個別の研究が推測したところによると、人類は7万年前には全世界でわずか2000人にまで激減、消滅しかけていたことがわかってきたそうです。

一体、7万年前に何が起きていたのでしょうか?詳細は以下から。




Study says near extinction threatened people 70,000 years ago - Yahoo! News

2005年に開始された、遺伝学によって人類学を研究するこのプロジェクトによると、ミトコンドリアの追跡によって、現在の人類は約20万年前にアフリカに住んでいた「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている単一の母親の子孫であることがわかっており、約6万年前から全世界へ人類の分散が始まっています。しかし、このミトコンドリア・イブと全世界への分散までの間に何が起きたかについては今までほとんどわかっておらず、謎に包まれていました。

最近の研究によると、南アフリカのKhoi族とSan族の人々は9万年前と15万年前にほかの人々から分岐したような形跡がミトコンドリアの解析で判明。どうやら、石器時代に先だって小さな人数の集団に分離された後、一緒に戻ってきたりして数が増加、その他の地域へこの時期に拡散し始めたらしい。さらに13万5000年前と9万年前に東アフリカでひどい干ばつが発生、そして7万年前には極端な気候変動によって人類はついに消滅の危機に瀕するほどの少数にまで激減し、一時は2000人ほどになっていたようです。

米国国勢調査局の調査によると、現在は66億人以上の人類が地球上にいるらしいのですが、いつどのような理由で再び絶滅の危機に立たされるかは誰にもわかりません。


103投稿者:7  投稿日:2011年06月03日(金) 10時30分25秒

猿人、女は旅立ち男は地元に チンパンジーに近い行動
2011年6月3日10時9分

南アフリカで見つかったパラントロプス・ロブストス=ネイチャー提供
 二足歩行を始めた猿人は、女が群れを離れて旅をし、男は生まれた場所を離れずにいたらしい。英米や南アフリカなど6カ国の研究チームが2日、英科学誌ネイチャーに発表した。

 チームは、歯に含まれるストロンチウムが、エナメル質ができる子どものころに育った土地の食べ物の影響を受けることに着目。南アの洞窟で見つかった180万年以上前の猿人、アウストラロピテクス・アフリカヌスとパラントロプス・ロブストスの計19体の歯を調べた。

 その結果、男とみられる歯の9割が発掘された洞窟周辺の特徴を持ち、女とみられる歯の半数以上に、離れた地域の特徴があった。

 ボス以外のオスが群れを離れる行動を取るゴリラよりは、メスが群れを離れるチンパンジーに近かった。
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107投稿者:777  投稿日:2011年08月06日(土) 18時23分44秒
金髪碧眼を生み出した脱メラニン色素はこの1万年ぐらいで起こったのだろうか。
108投稿者:1  投稿日:2011年08月06日(土) 20時03分07秒
白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html
109投稿者:777  投稿日:2011年08月14日(日) 10時11分06秒
碧い眼については、ここ5000〜10000年という説が出てきていますね。
110投稿者:777  投稿日:2011年08月27日(土) 08時08分15秒
青い目は黒海の北岸で6000〜10000年前に誕生したという説が、
3年前に提起され、特に反論も出ていない。
これが定説になると、印欧語族の移動とも合せて、
欧州人の古代史がかなり解明されることになるがどうだろう。
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118投稿者:4  投稿日:2011年10月09日(日) 21時17分22秒


ロイター通信がスイスの遺伝学研究センターiGENEAからの情報として伝えたところによれば、西ヨーロッパに住んでいる男性の半分はエジプトのファラオ、特にツタンカーメン王の子孫であることが明らかになったという。
 学者らはツタンカーメン王のミイラからDNAを取り出し分析したとのことで、DNAは何世代にもわたってほとんど変化なく保存される。その分析の結果、ファラオの染色体のひとつが、西ヨーロッパに住んでいる男性のおよそ半分に見られるものだということが明らかとなった。

 たとえばフランスにおいては、その染色体は男性の60%に見られるほか、スペインでは男性の70%に見られたという。一方で現代のエジプト人男性では、その割合は1%以下に過ぎない。

 研究者らは、ツタンカーメン王とヨーロッパ人男性の共通の祖先は、およそ9500年前にカフカスに住んでいたと考えており、7000年前にヨーロッパへの移動を開始したとされている。

 ツタンカーメン王は10歳の時に王位に就き、19歳で亡くなるまで国を統治した人物とされている。

http://japanese.ruvr.ru/2011/08/03/54124118.html
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152投稿者:7  投稿日:2012年08月17日(金) 11時27分29秒
人類出現「もっと昔から」説 7百万〜8百万年前と推定








 人類がチンパンジーとの共通の祖先から分かれたのは、700万〜800万年前だった可能性が高いとする研究成果を京都大など日米独英の共同研究チームがまとめ、13日付の米科学アカデミー紀要に発表した。これまでの分析より、人類の起源が早かったことになる。

 研究チームは、ヒトと野生のチンパンジーの世代交代の年数、DNAの変異の起きる確率から祖先が分かれた時期を特定した。従来のDNA分析は両者が分かれたのは400万〜600万年前としていた。しかし、600万〜700万年前の人類化石がアフリカで見つかっており、時期にずれがあった。

 研究チームは、チンパンジーの世代交代の平均年数をより正確に反映させ、精度の高い分析法で計算しなおした。その結果、700万〜800万年前に種が分かれた可能性が高いとし、化石が示す時期が正しかったと判断した。(波多野陽)
153投稿者:4  投稿日:2012年08月29日(水) 00時07分46秒
「全ての言語はトルコに通ず」?英語もヒンディー語もルーツは同じ、国際研究
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/188.html
154投稿者:4  投稿日:2012年09月22日(土) 23時30分47秒

オホーツク人DNA解読 北大研究グループ アイヌ民族と共通性

  5〜13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに
  北大の研究グループが成功した。オホーツク人のルーツには諸説があるが、
  現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことが分かり、
  北方からの渡来説が有力となった。アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて
  「続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。

  大学院理学研究院の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。

  同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。
 
  その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っている
  ハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことが分かった。
  現在、カムチャツカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
155投稿者:4  投稿日:2012年09月22日(土) 23時31分05秒

北海道新聞  (06/18 09:50)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/environment/172199.html







2 : 道民雑誌('A`) φ ★ : 2009/06/18(木) 11:50:34 ID:???0 〜つづき〜

  一方、縄文人−続縄文人−擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、
  縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
  どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、
  増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、
  オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。
  ◇
  オホーツク人 漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5〜13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。
  ルーツは明確でなく、主に《1》アイヌ民族説《2》ニブヒ説《3》アムール下流域民説《4》すでに消滅した民族集団説−の4説で論議が交わされてきた。
  同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀〜紀元6世紀)、擦文人(7〜13世紀)が道内に暮らしていた。

北海道新聞  (06/18 09:50)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/environment/172199.html
156投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
157投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
158投稿者:4  投稿日:2012年11月03日(土) 14時21分57秒

弥生人は長江流域から直接海路日本に渡来した稲作漁労民で主力は呉からの難民。
その当時の朝鮮を支配していたのは漢民族

ニニギの尊や神武天皇は弥生人ではなく、鹿児島に渡来してきた朝鮮を支配していた漢民族の一族


詳細は


弥生人の起源
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/549.html

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html

大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html

中国大好き _ 中国人のY-DNA
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html
159投稿者:4  投稿日:2012年11月03日(土) 15時06分00秒
大和朝廷と百済王家は親戚筋
古墳時代以降大量に畿内に移住してきた帰化人は大和朝廷と同系の民族

その結果、現代の京都や奈良の人間の遺伝子は朝鮮人と殆んど変わらない。

そういう意味では畿内人は朝鮮起源の民族

京都人がみんなから嫌われるのは朝鮮人が嫌われる理由と同じかな。
160投稿者:6  投稿日:2012年11月04日(日) 07時41分01秒
縄文・弥生人「混血」、遺伝子解析で裏付け:渡来時期に関する歴史認識が誤っていれば,説明は違うものになるかも...
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/257.html
161投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
162投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
163投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
164投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
165投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
166投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
167投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
168投稿者:casquetteobey  投稿日:2013年02月10日(日) 00時57分10秒
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169投稿者:ジミーチュウバッグ  投稿日:2013年03月15日(金) 13時02分14秒
今日は〜^^またブログ覗かせていただきました。よろしくお願いします。 ジミーチュウ バッグ http://jimmychoo.warabuki.net/
170投稿者:クロエ財布  投稿日:2013年04月05日(金) 16時10分33秒
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171投稿者:michaelkorsbags  投稿日:2013年05月06日(月) 04時50分15秒
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172投稿者:newkobebryantshoes  投稿日:2013年05月06日(月) 04時50分34秒
人類の起源 new kobe bryant shoes http://newkobebryantshoes.me.cc/
173投稿者:4  投稿日:2013年05月17日(金) 08時13分43秒
6000年前以降の印欧語族の欧州侵入
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2011/01/001876.html
174投稿者:4  投稿日:2013年05月17日(金) 08時50分03秒

Y染色体亜型分類の系統樹
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=244518
175投稿者: 投稿日:2013年08月05日(月) 21時15分29秒
64 :白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2013/07/30(火) 01:32:05.38 ID:GYvw3Hbk>>62-63
ベルツ氏も、高貴な容貌は、北方渡来形質の「満州朝鮮型(長州型)」と
されとるよ。 しかもジャンク遺伝子のY染色体は、容貌たぁ関連が無ぁよ。
Y染色体の図を挙げても何の意味にもならんわ。
http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/9-0roots.html
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 座談会(3)遺伝子は語る
 海部 実は、縄文人のmtDNAが多様だから顔立ちや体格も多様で
あったと言えるわけではない。系統解析に用いているmtDNAや
Y染色体DNAと、顔立ちを決める遺伝子は別だ。mtDNAや
Y染色体はあくまでもヒトゲノム(遺伝子セット)のごく一部で、
系統解析に利用し易いから使っているにすぎず、これらから個人の
遺伝的特徴が全部わかるわけではない。遺伝子のデータの解釈は、
一般に思われているほど簡単でない。
 尾本 現在ではDNAそのものを調べることが容易になり、非常に多くの情報を
もたらしてはくれるが、やはり1種類のデータのみで集団の由来を考える
のは慎重でありたい。小規模集団では遺伝子がある世代でがらりと変わる
「遺伝的浮動」が起きる可能性が大きいので、細かく断定するのは危険。
考古学なども含め他の研究との相互検証が必要だろう。
、「系統解析に用いているmtDNAや Y染色体DNAと、
顔立ちを決める遺伝子は別だ。mtDNAや Y染色体はあくまでも
ヒトゲノム(遺伝子セット)のごく一部で、 系統解析に利用し易いから
使っているにすぎず、これらから個人の 遺伝的特徴が全部わかるわけでは
ない。」
176投稿者:4  投稿日:2013年08月11日(日) 18時03分04秒
559 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 09:24:26.60 (p)ID:Vts3Uivb0(6)
>>558
多分古代支那も中東の派生文明なんだよ
白人が黄河流域の中原に住んでたことからして

古代支那が中東人の文明なら、古代日本に中東の影響が有っても自然
実際にシルクロード通ってモノが有るんだし

ユダヤ文化って言ってるのは本当は、古代の中東文化をいかにもユダヤ固有に置き換えてんじゃないかなと思うけどね


562 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 09:58:04.80 (p)ID:Bv4HUWnO0(6)
>>559
>多分古代支那も中東の派生文明なんだよ

そのとおりだと思います。
例えば、シナ大陸における「車輪」の発明ですが、
普通は時代ごとに先ず現れ、改良・改良で完成するのに、突如として表れている。
どうやら、ヒッタイトが大陸続きに渡った可能性が大きいそうです。
勿論、中共は現在必死にその間の改良の過程を捏造中とw。
シナの大学院に通っていた友人によると、「古代中国の思想家」も眉唾もので、
中東や特にインドの思想家に中国式名前をつけて丸々パクった可能性がデカいと。
その友人によると、特に『老子』は実際に存在していなかったとほぼ判明してるそうな。。。

李白はトルコ系で碧眼だったし(現在中国でもほぼ認定)、
顔が赤いと言われてた関羽はアーリア人だし
山東省にはコーカソイドの居住地跡がみつかってるし
楊貴妃で有名な安禄山は、遺体からDNA鑑定でコーカソイドであると判明してる。

古代中国ってそんなところ

563 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:21:47.57 (p)ID:ZYFpt4aHO(3)
孔子の住んでた地域だっけ?
住民の身長が異様に高かったの

177投稿者:3  投稿日:2013年08月11日(日) 18時03分58秒

564 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:29:06.99 (p)ID:Bv4HUWnO0(6)
>>563
そそ、山東です。
自分縁あって山東省の友人多いんですが、でかい人多い。
はじめ孔子が2mの大男だって「ウソばっかw」と思ってたんだけど、
山東の友人にあったら190CMあったから、本当かもと思えたw

アメリカNBLで活躍するYAOMING選手は上海出身だが、
両親がやはり山東省の出身。
「山東大漢」と言う体格の良さをあらわす言葉があるくらい。



566 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:31:57.60 ID:fjuH7t280
楊貴妃自身もその体臭や、得意とした舞踊からイラン系の血が
入ってるのではないかと言われているしね。

唐代に流行した景教はキリスト教の一派だし、西方文化は意外と
古代の中国にシルクロードを通じて入ってきてたのよね。

567 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:40:55.37 (p)ID:Bv4HUWnO0(6)
うん。あと注意すべき点としてどっかで見たのが、
古代中国大陸に多かったのはやっぱりトルコ系や中東系なのに、
白人至上主義の欧州の学者あたりが「白人である」としているとのこと。

ペルシャやトルてコ系が多いのは位置的に見て間違いないが、
どこの国にも「人種」を優先させたい事大主義の輩はいるみたいね。
「すべては白人がはじめた」としたい学者がいるそうな。
漢字の発明も世界なんちゃら発明もすべては白人が〜と。
事実は知らんがなw

178投稿者:4  投稿日:2013年08月11日(日) 18時04分06秒

569 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:53:06.29 (p)ID:Vts3Uivb0(6)
古代の渡来人も多分コーカソイドだと思うけどね
秦人とか徐福とか

秦もコーカソイド王朝なら徐福なんか山東半島のコーカソイド国出身

もう与太話でもなんでもなく普通にコーカソイドの方が自然な解釈なんだけど

570 :本当にあった怖い名無し :2012/05/18(金) 10:54:21.68 (p)ID:6emrmDXs0(4)
>>559
肝心のユダヤ人がそれ以前に偽物wwwww
ハザールと部落の混合民族ww

>>567
「世界は広い」というが結構「世界は狭い」よね
ユーラシアもそんなに長いが距離ではない
一大で渡ろうと思えば渡れるのでは

571 :本当にあった怖い名無し :sage :2012/05/18(金) 10:55:09.02 ID:mimSK8PdO
トルコ人というと、今はアナトリアのトルコ共和国の人の印象が強いが、元はモンゴロイドの色彩が強いアジア人。
中国の史書でも、トルコ人はカボチャのような輪郭の顔で、細い目に潰れた鼻の醜い人々という描写があるくらい。

179投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
180投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
181投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
182投稿者:「ま」人むくぽん  投稿日:2017年07月31日(月) 02時32分26秒
>まむしさまっ
匈奴にょ中心部族(屠各種全般?)につぃて
個人的にゎコーカソイド主流説に賛同
しまつが、断定するにわまだ早いと
思うます。
たぶんサカ=スキタイ系にょ東方進出
最前衛の部族集団がモンゴル高原のっ
原始的遊牧民や狩猟民に当時最新の
騎馬遊牧文化・技術をつたえながら
かれらを従え最貴種としておさまったの
でゎないかと思ってはいまつが。
ノインウラ出土にょ刺繍画に描かれた
匈奴武人像がっもし支配層の人物像
だったとしたら、彼らゎ我々アジア人が
イメージすゆヨーロッパ人そのものにょ
容貌をしていた可能性も。。。。
なお"トルコ人種"とゆう概念ゎ存在しなぃ
と思われまつ。
悦般ゎ記録をみる限りたしかに匈奴貴種の
子孫にふさわしく清潔で貴族的で
(柔然とのエピソードでみるよぅに)相当に
お高くとまった存在だったようでし。

ローマ・ゴート側の記録を見るかぎり、
アッチラ大王にょ"黒フン族"ゎおなじ
北匈奴のっ子孫とされながらたしかに
貴族的な悦般とゎあまりにも対照的な
まずしく野蛮な山だし集団そのものに
見えまつが、北匈奴と無関係でわなく
イリ地方で悦般となった攣提単于系集団
とゎべつにNO2の呼延氏に率いられて
カザフ草原に移動した北匈奴主力が移動後
無政府化してから約200年たった頃に
数個の名もなぃ山だし下級部族がっ連合し力をつけて北匈奴主力をを再編したのが
"黒フン族"だったのでわないかと
思うます。
投稿者 メール
(゚Д゚) <